諸行無常の響きあり~生きている今を大切に
公開日:2019年8月30日 09時07分
更新日:2019年8月27日 17時48分
森岡 恭彦(もりおか やすひこ)
東京大学名誉教授 日本赤十字社医療センター名誉院長
われわれ人間はいつ死ぬか分からず、老若を問わず生きている現在は偶然であるとも言えるが、特に老人では多くの知人があの世に去り、自分も体力・気力の衰え、病気などから死期を感じることも多く、万事につけ無常感が強くなり、生きていることの困難さを意識する。
そこで、本屋さんに行くと老人向けの書がたくさん並んでいる。「老年になる技術」、「不惑の老後」、「生きていくあなたに」、「老年を面白く生きる」、「楽しく百歳 元気のこつ」あるいは「ぽっくり往生」、「ぼくのピンピンコロリ」、さらに開き直って「大丈夫心配するな 何とかなる」、「猫も老人も役立たずで結構」と言った著書もあって賑やかである。こういう著書の作者は人生の成功者の有名人やご高齢の有名作家で、先ずは人間は必ず死ぬとし、その上で老人が元気で明るく、楽しく暮らすにはどうすべきかといったことが書かれていてそれなりに納得できるところがある。しかし、一般の老人が読むと、俺と同じようなことを考えている人がいるものだ、そんなことは当たり前では、それは無理・・・と思われることも多く迫力がないものも多い。
また、旧知の作家・加賀乙彦先生には時々著書を頂いているが、最近「妻の死」という著書を拝読した。内容はこれまで書かれた小編を中心に10篇ばかりのエッセイ風の小説で、急逝されたご夫人のこと、キノコに魅せられた老精神病医、死にゆくがん末期患者と周囲の人たちの葛藤、雪中の小屋に閉じ込められた遭難者、戦時中、陸軍兵学校で自殺した少年兵などの話などが書かれていて何か暗い話が多い。帯封には卒寿記念出版、「齢九十、暗い暗い穴の底へ」とある。先生は犯罪精神医学の専門家でもあってこれまでもいささか暗い話を書かれていることが多く、昨年も「ある若き死刑囚の生涯」という著書を頂いた。作品は著者の性格によるものだが、上述の老人向け著と違ってこういう暗い書もそれなりに面白いところもある。ともかく、老人の生き方については多くの書がある。ということは老人の生き方となると難問だからともいえよう。しかし、老人に限らず、どのように生きるのかというのは、その人の性格、家族や職業などの生活環境に左右され多様であり、結局は本に頼らず個々の人が自分で決めなければならないことは当然のことである。
こういう個々の老人の問題とは別に重要な社会問題もある。わが国では最近、人生100年時代と言われるが、少子高齢化社会の急速な発展による社会的状況は深刻で、老後の生活費は年金では足りず、月5万円、30年生きていれば2,000万円不足というので政界は大騒ぎである。とくに問題なのは要介護老人の増加で、このサイトの運営主の長寿科学振興財団もただ長寿、寿命を延ばすことではなく、健康で暮らせる寿命、健康寿命の発展を目的にしているし、本年4月に開催された日本医学会総会の主題は「健康長寿社会の実現をめざして」とされている。WHOによると「健康とは完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態」とされ、上記の経済的問題も重要な課題だが、高齢者にとっては特に要介護老人の増加が気になる。最近の調査では、80~84歳の約30%、85~89歳の約50%、90~94歳の約74%の人が要介護老人とされていて、米寿を超えた私たちにはショックである。少なくとも他人の助けを得ずに生活したい、特に認知症だけは何とか避けたいのが最大の願いともいえる。しかし認知症の原因も不明な点が多く、予防については適切な運動・食事、十分な睡眠、あるいは好奇心、向上心、感謝の心、笑い、信仰などの重要性が指摘されているがこれといった明瞭な対策がないのが現状でそれだけに心配である。
また、病気や健康についての専門家である医師、特に健康長寿を研究している専門家はほかの業種の人よりは健康長寿であらねばならない筈だが、知識と実行とは別のことで「紺屋の白袴」、「医者の不養生」ということもあって必ずしも専門家が健康長寿という訳ではなさそうである。幕末の頃、九州博多の聖福寺の高僧・仙厓は短文と画を書いた画賛を数多く残したが、その一つに蛙が描かれ「座禅して人は佛になるならば」とある。高僧といえども人間はただ座禅しただけでは悟れるわけではない、ましては凡人は煩悩に悩まされながら生きているというわけである。
私は米寿を超えたが、身体的障害や煩悩に悩まされて生きており、とても100歳までは道遠く、生き方と言われても皆様のお役に立ちそうにないが、あえて現在の気持ちを述べれば「諸行無常の響きあり。偶然に生きている現実に感謝し、生きている今を大切にしたい」ということである。
著者
- 森岡 恭彦(もりおか やすひこ)
- 1930年東京生まれ。東京大学医学部卒業。自治医科大学外科教授、東京大学第一外科教授(附属病院長兼任)を歴任。退官後、関東労災病院長、日本赤十字社医療センター院長(日本医師会副会長併任)を歴任し2001年に退職。現在、日本医師会参与、長寿科学振興財団評議員など。