人生100年時代、違和感の正体
公開日:2020年1月31日 09時00分
更新日:2020年1月31日 09時00分
伍藤 忠春(ごとう ただはる)
日本製薬工業協会 理事長
これから述べることがこのエッセイにふさわしい内容かどうか少し躊躇したが、意を決してタイトルのような少し大げさな表題を掲げて考えを述べてみることにした。
先ず、表題の意味するところであるが、昨今、多方面で、社会に対する明るく前向きなメッセージとして「人生100年時代」が叫ばれることが多くなってきたが、私自身はこのような風潮に何とはなしの違和感を感じているということである。ここでは、その違和感の正体は何なのか、この機会に自分なりに大胆に探りを入れてみたいと思う。
一つ目のポイントは、私自身の生物としての生存能力の問題ではないかと思う。とっくの昔に亡くなった両親の平均死亡年齢は70歳にも達しておらず、生活環境が大きく変わった今日単純な比較には意味がないとしても、基本的な体力や体質を両親から受け継ぎ、また、そう重くはないが慢性的な疾患を抱えているわが身にとって、人生100年時代は遠い夢のまた夢のような気がして、現実的な目標としては、現在の男性の平均寿命程度は何とかクリア出来ればいいなといったかなり控えめなところになる。
二つ目のポイントは、一般論ではあるが、寿命の伸長に伴い、喜びや楽しみばかりでなく、悲しみや苦しみといった生きる上での困難も同じように増大するのではないかという漠然とした不安感である。一つのエピソードを紹介してみたい。私の故郷は大分の湯布院に隣接する山間の小さな町であるが、数年前、もう廃校になって久しい小学校(1学年1クラス)の同級会が田舎で開催された。宴もすすみ話が盛り上がってきた頃、2~3人の女性陣が連れだって私のところにやってきた。幼いころの恋心でも告白されるのかと内心期待をもって聞いていると、そろそろ老境に差し掛かった彼女らから異口同音に浴びせられたのは、「忠春さん、もうこれ以上長生きするようなクスリはつくらんじょくれ。私たちもこれ以上そげー長生きしてみたいとは思わんから。」という全く予想外の驚くべき言葉であった。私が製薬メーカーの業界団体の役員をしていることを当然意識しての発言であるが、普段あちこちで「創薬やイノベーションの重要性」とか「健康寿命の延伸」とか公式的なことを発信し続けている私にとっては、誠に意表をつかれた衝撃的(?)な言葉であった。衝撃的ではあったが、日常の生活のなかで両親などの介護や看取りを通じて、衰え行く老人の姿にじかに接し苦労もしてきたであろう者たちの発する偽らざる言葉なんだろうなと素直に理解するとともに、社会の真実とはこういうごく普通の生活のなかにこそ存在するものではないかと思ったりもした。
三つ目のポイントは、格差の問題である。グローバル経済の進展に伴い、所得の不均衡が世界的規模で拡大していると言われている。かつては分厚い中間所得層の存在を誇っていた我が国においても、確実に富の偏在、二極化がすすみ、この格差が教育等を通じて次の世代に連鎖していく、そういう時代になってきたように思う。そして、このような格差の問題あるいはその帰結である貧困の問題は、社会の中の弱い層である子どもや高齢者の世代に特に顕著に表れてくるものと考えられる。現にこのような問題意識から、6年ほど前に超党派の国会議員により「子どもの貧困対策推進法」という法律も制定されている。老人の貧困問題についても、今後、推計で60万人をこえると言われる中高年の「ひきこもり」の人々や、賃金格差が指摘される非正規労働者等の人たちの高齢化が進行するにつれて、これから益々大きな社会問題になってくるのではないかと想像する。そして、このような高齢者世代内部での所得や資産格差がひいては寿命や健康寿命の格差につながり、また、各人の人生の幸福感や満足感に大きな影響を及ぼすものと思われる。現在、政府では全世代型社会保障検討会議が設置され議論がすすめられているが、私流に少し角度を変えて問題を捉えてみると全世代型格差問題検討会議なるものこそ必要ではないかということになる。
以上、違和感の正体を自分なりに探ってみたが、多分これでは「人生100年時代」をテーマにして期待されるところのエッセイにはならないのだと思う。そこで私としては、90歳とか100歳とか人生の長さにとらわれることなく、今日のような長寿時代における「私の生き方」の方に勝手に重点を置いて最後に愚見を述べてみたい。
誰が言い出したかのか知らないが、よく識者の方が講演などで強調される高齢期の生き方のコツとして、「教育」と「教養」の大切さというのがある。「教育」は「今日行くところがある」、「教養」は「今日用事がある」を意味するものであり、誠に言いえて妙と感心する。ただ、私流にこの提言を少し補強するなら、「教育」と「教養」をより深めていくには良き「教師」が必要ではないかと言いたい。その心は「今日知ることがある」である。加齢とともに人間のもろもろの欲望は次第に衰えていくのであろうが、本人の努力次第ではこの新しいことを知る意欲はかなり高い水準でかつ長い間維持できるのではないかと思う。願わくばこの先、認知症などにならずに「教育」と「教養」に加えて「教師」の存在にも意を払いつつこれからの高齢期を送れたらいいなと、個人的にはそんなことを考えている。
著者
- 伍藤 忠春(ごとう ただはる)
- 昭和47年 九州大学法学部卒、昭和48年 厚生省入省、平成8年 厚生省障害保健福祉部企画課長、平成9年 厚生省児童家庭局企画課長、平成10年 厚生省社会援護局企画課長、平成11年 厚生省大臣官房人事課長、平成13年 厚生労働省大臣官房審議官(老健・健康担当)、平成15年 厚生労働省雇用均等・児童家庭局長、平成17年 辞職、同年 財団法人長寿社会開発センター 理事長、平成22年 日本製薬工業協会 理事長、現在に至る。