第5章 口腔ケア 8.市販の義歯安定剤の問題点と洗浄性の良い義歯安定剤の開発
公開月:2020年5月
北海道大学大学院歯学研究院口腔健康科学分野
高齢者歯科学教室 教授
山崎 裕
北海道大学大学院歯学研究院口腔健康科学分野
高齢者歯科学教室 助教
岡田 和隆
1:はじめに
義歯安定剤は「維持、安定のために不良な義歯の機能改善を目的として患者自身によって用いられる市販材料である」と定義されている1)。現在、義歯安定剤の市場規模は約120億円とされ2)、歯科診療報酬全体(約2.8兆円)の約0.4%を占めている。また義歯装着患者の約3割は義歯安定剤を使用しているとの報告3)もあり、多くの患者が義歯安定剤を使用しているが、実は歯科診療所ではほとんど販売されておらず、市中薬局や量販店で患者が直接購入している。義歯安定剤はそのタイプによって特性や使用法は異なるが、現在多くの製品が販売されているため、患者は個々の製品の違いが分からずに、店舗の推薦、TVコマーシャルの影響、購入価格などから選択しているのが現状である。このように歯科医師の診察がなく、患者自身の考えで義歯安定剤が購入されているのは非常にリスクがあり問題であるとされている4)。
かつて義歯安定剤は、補綴が上手でない歯科医師が製作した義歯に使うものとされ、卒前教育ではほとんど教育されてこなかったこともあり、わが国の歯科医師は義歯安定剤の使用に否定的であった。しかしながら近年、欧米を中心に義歯安定剤の有用性の報告5、6)が多くみられるようになり、わが国での義歯安定剤への評価も変化してきた。これには義歯を取り巻く環境の変化も大きな要因になっている。8020運動の効果により義歯装着者の割合は減ってきたが、高齢者の絶対数は増えているため数の上からは未だ多くの義歯装着者がいる。そして超高齢社会の進展により、義歯の使用期間が延長されたため顎堤の吸収が顕著な症例や、多種薬剤服用の副作用などによる口腔乾燥から義歯の装着が困難な症例が増えていること、在宅・施設・病院など訪問診療での対応患者が増えていることなどが挙げられる。そのため義歯安定剤は歯科医師の管理下で適切に使用されれば、義歯の維持安定、機能および患者管理の満足度を向上させる有用な材料であると認識されるようになった2)。同様の効果は認知症患者や要介護高齢者にも期待できると考えられている7)。
本稿では従来の義歯安定剤の現状と種々の問題点、義歯安定剤の使用方法、患者指導を概説し、最後にその問題点を改良した新しい義歯安定剤に関して紹介する。
2:義歯安定剤の現状
1.市販状況
日本では小林製薬株式会社が1951年に米国のブロックドラックカンパニーから日本での販売権を取得して、「ポリグリップ」を市場導入したのが初めである。以後、種々のメーカーが次々と市場へ参入し、また既存メーカーも新商品を発売し、現在では約20種の商品が販売されている。義歯安定剤は、義歯床を口腔粘膜表面に固定する方法の違いによって粘着力の増強を図る「義歯粘着剤」(denture adhesive)と適合不良の間隙を補填して辺縁封鎖の向上を図る「ホームリライナー」(home-reliner)の2種類に分類される(図1)。現在、日本の市場では粘着タイプが7割、ホームリライナーが3割となっている2)。
1)義歯粘着剤
カラヤガムやカルボキシルメチルセルロース(CMC)、メトキシエチレン酸共重合体などの水膨潤性の水溶性高分子化合物を主剤としており、義歯床と口腔粘膜表面の間で唾液を吸収して粘着性を発揮することにより、義歯の維持力を増加させる。供給される剤形により、粉末タイプ、クリームタイプ、テープタイプの3つに分類されるが基本的な組成は変わりない。
①粉末タイプ
粉末が口腔内の水分を吸収することでゲル化し粘着性を増す。取り扱いに多少の習熟性を要する。
②クリームタイプ
クリーム状にするため白色ワセリンや流動パラフィンなどの軟膏基剤が含有されている。粉末タイプに比べ唾液に流されることが少なく耐久性に優れる。義歯床に塗布しやすく均一に伸ばせるという点では3種の中で一番優れている。
③テープタイプ
やや硬めのシート状あるいは義歯形態に類似した形状で供給され、吸水することで粘度の高いゲル状となる。
2)ホームリライナー
主成分は吸収性の非水溶性高分子である酢酸ビニルで溶媒であるエタノールを添加させ可塑性を持たせている。義歯と顎堤粘膜との大きな隙間を埋め適合を改善することで義歯の維持力増加を図るが、厚みがあるため咬合が変化する点や時間が経つと剥がれにくくなるため、衛生上の観点から問題となる。そのため米国では、歯科関連製品としては取り扱っておらず、わが国においても日本補綴歯科学会では維持力の向上は認めても、むしろ為害作用(身体に害を及ぼす作用)が大きい場合が多いとして推奨されていない1)。そのためか1990年代では多くのシェアを占めていたが、最近はクリームタイプに逆転され次第に減っている。
3:義歯安定剤の問題点
1.義歯の問題点を隠蔽
義歯安定剤は、適合の悪い義歯さえ、維持安定を大きく向上させるため、患者は安易に義歯安定剤を使用し、治療が必要な義歯をそのままにして口腔内の状況を悪化させてしまう恐れがある。不適合義歯の有する問題点は義歯安定剤で改善することはできないため、義歯安定剤の使用が義歯の本質的な問題点を覆い隠してしまうことになる。
2.為害作用
1)口腔乾燥症患者における問題
高齢者では、加齢変化や多種薬剤服用が原因で唾液の分泌量が減少し口腔乾燥が認められる場合が多く、わが国では800万人から3,000万人の患者がいると推定されている8)。現在市販されている義歯粘着剤は、唾液を吸収することで粘着力を発揮するように、唾液があることを前提として作られており、口腔乾燥症患者のことは考慮されていない。従って口腔乾燥症で唾液が少ないと粘着力が発揮できずに上手く吸着できない。また口腔内の水分を吸収することで、さらに口腔乾燥を助長させる可能性があり、口腔乾燥症患者には適していない。
2)義歯や口腔粘膜への残留
口腔乾燥が認められる場合、義歯粘着剤の粘着性が義歯や床下粘膜に義歯安定剤を残留させる原因となりえる(図2)。また使用法の誤りによっても義歯粘膜面や床下粘膜に義歯安定剤が残留することがある。クリームタイプはとくに粘膜への付着性が高いため、塗布量を守っていても床下粘膜への残留が認められることがあり、その除去には相当な時間を要することもある。
一方、ホームリライナーは粘膜にはそれほど粘着性を示さないが義歯床には強い粘着性を示し、その除去は困難である9)。色調的にも義歯床と類似している製品もあり、患者自身がすべて除去したつもりでいても義歯床に残留し、古くなった義歯安定剤の上にさらに積層している場合もしばしばみられる。
3)微生物学的問題
残留した義歯安定剤は口腔内微生物のリザーバーとなり、とくに、古い義歯安定剤を積層して使用することは、衛生上の観点から大きな問題となり10)、義歯性口内炎11)や誤嚥性肺炎のリスクを助長するとされている。しかし、義歯安定剤の使用そのものが微生物学的為害作用に及ぼす影響に関しては未だ明らかになっていない。最近の研究12、13)では、義歯粘着剤においては適切な使用下であれば否定的な報告はない。しかし実際には、義歯安定剤が粘膜に残留したままで使用したり、もとより口腔内の清掃状態が悪い状態で使用している場合には、当然、義歯安定剤がカンジダなどの微生物の温床となる。
4)咬合、顎堤、義歯の維持への影響
歯科での治療が必要な不適合義歯であっても、義歯安定剤を使用することにより一時的に義歯の維持安定が向上する。これは有害な事象であり、この状態を放置していると、顎堤に不均一な圧力が加わることになり、過剰吸収を起こして義歯がより不適合になる可能性も考えられる。とくに、ホームリライナーは粘度が高く均等に広がりにくいという性質を有するため注意が必要である(図3)。部分床義歯の場合には、誤った使用法により義歯安定剤が積層することで義歯の浮き上がりにつながり、逆に維持安定が不良となることもある14)。
4:義歯安定剤の使用方法、患者指導
クリームタイプの義歯安定剤の場合、全部床義歯では義歯粘膜面に適当な間隔をあけ、義歯安定剤を2、3か所に、それぞれ小豆大の量を塗布14)する。部分床義歯では床面積にもよるが、全部床義歯よりも義歯安定剤の塗布する場所を少なくする。粉末タイプの義歯安定剤は、義歯粘膜面を水分で湿らせて安定剤を均一に振りかけた後、余分に振りかけた安定剤を、義歯を軽くたたいて振り落とす。いずれも義歯安定剤の層が薄くなるほど粘着力の強さは高くなるため、必要最小量を使用し、義歯でしっかりと咬合するよう指導する。ホームリライナーを使用せざるを得ない場合は義歯治療が必要である状態なので、可能な限り早期に歯科受診を必要とする。
粘膜に付着した義歯安定剤は、ガーゼやスポンジブラシを使用して除去する。また、ぬるま湯での含嗽も効果的である。
義歯に付着した義歯安定剤は、義歯粘着剤の場合、ガーゼやティッシュペーパーで大まかに義歯から拭き取った後に、流水下で義歯用ブラシを使用して機械的清掃を行う。現在、クリームタイプの義歯安定剤を拭き取るためのドライシートも市販されている。アメリカ歯科医師会は、毎食後、義歯と床下粘膜に付着した義歯安定剤を洗浄し、新しい義歯安定剤を塗布し直すことを推奨している15)が、実際にそのように使用していない人も多くみられるのが現状である。ホームリライナーは義歯床には強い粘着性を示すため9)、手指で義歯から剥がすように除去する。指先で義歯をさわり、目で見て取り残しがないか確認する。色調的にも義歯床と類似している製品もあり、患者自身がすべて除去したつもりでいても、残留していることがあり注意が必要である。
5:洗浄性の良い義歯安定剤の開発
市販の義歯安定剤の問題点(義歯安定剤による汚染、口腔乾燥状態で吸着しにくい)を解決するために、国立長寿医療研究センター(歯科口腔先進医療開発センター センター長 角保徳先生)により、洗浄性に優れ、衛生的に使用できる義歯安定剤「ピタッと快適ジェル」(日本歯科薬品株式会社)が開発された(図4)4、16)。
従来の義歯安定剤はよく吸着するが、吸着しすぎるがゆえに義歯や床下粘膜からの除去が難しかった。これは成分中に油性成分が含まれていることが主な原因である。一方で、「ピタッと快適ジェル」は油性成分を一切含まず、水性成分だけで構成されたジェルであるため、水で簡単に除去ができる(図5)。義歯や床下粘膜に残りにくいので、取り残した義歯安定剤に微生物が繁殖するリスクを軽減することが期待でき、衛生的に使用することができる。また、介護の現場では義歯安定剤の除去困難に伴う介護者等の清掃負担が大きいことも問題になっているが、「ピタッと快適ジェル」であれば清掃負担の軽減にもつながる。よって、従来の義歯安定剤の除去に困っている方や、要介護高齢者に適している。
水性のジェルである「ピタッと快適ジェル」は、口腔乾燥の方にも適している。従来の義歯安定剤は唾液(水分)を吸収して、膨潤することで吸着するように設計されているため、口腔乾燥の方の場合、唾液が少なく上手く吸着しないことがあった。一方で、「ピタッと快適ジェル」は口腔内の水分を全く必要とせずに、ジェルの粘着力で義歯を吸着させることができる。また、ヒアルロン酸ナトリウムも配合されていることから、口腔内の保湿も期待できる。高齢化に伴い増加している口腔乾燥対策としても「ピタッと快適ジェル」は有用であると考えられる。
「ピタッと快適ジェル」は食事の味を邪魔しないよう無味・無臭となっている。高齢者の楽しみの第一位は"食事"と言われており、快適な食事をサポートすることができる。
これらの特長がある「ピタッと快適ジェル」の使用方法は義歯の水分をふき取り、本剤を適量塗布(上顎であれば3か所、下顎であれば2か所)し、薄く塗り広げ、装着する。ただし、水で簡単に除去できるように設計されているため、持続時間は比較的短く、目安として1日3~5回の使用が必要となる。
在宅や施設において、従来の義歯安定剤の清掃が困難な点などから、義歯を使用することを諦め、義歯が無くても食事ができるように安易に食形態を変更するケースもよく見受けられる。義歯を使用することで食べる喜びが感じられ、口腔機能を維持することができ、義歯を使用していない人よりも認知症の発症リスクを4割抑制できる可能性も報告されており17)、義歯は極力使用することが望ましい。「ピタッと快適ジェル」の登場により、これまで義歯を快適に使用できなかったケースが見直されるきっかけになることが期待される。なお、本製品は薬事法上、医療機器に分類されるので歯科医院での専売になっている。
6:おわりに
超高齢社会の進行により、義歯の使用期間の延長や口腔乾燥患者、要介護者や認知症患者の増加により義歯治療は年々、難しくなっている。そのなかで従来の義歯安定剤は、粘着力の強さと持続性のみが追及され開発されてきたため、粘膜から除去しにくく口腔内を不潔にしてきた。
新しく開発された義歯安定剤「ピタッと快適ジェル」は、口腔乾燥患者に快適に使え、水洗で容易に除去できるなど従来の義歯安定剤の問題点を解決した安全な製品であるため、今後の長寿社会において需要が高まるものと思われる。
文献
プロフィール
- 山崎 裕(やまざき ゆたか)
- 北海道大学大学院歯学研究院口腔健康科学分野高齢者歯科学教室 教授
- 最終学歴
- 1985年北海道大学歯学部卒
- 主な職歴
- 1993年 北海道大学歯学部助手 2006年 北海道大学病院講師 2013年 北海道大学大学院歯学研究院口腔健康科学分野高齢者歯科学教室教授 現在に至る
- 専門分野
- 老年歯科、口腔内科、歯科心身症
- 岡田 和隆(おかだ かずたか)
- 北海道大学大学院歯学研究院口腔健康科学分野高齢者歯科学教室 助教
- 最終学歴
- 北海道大学大学院歯学研究科卒
- 主な職歴
- 2005年 北海道大学病院高次口腔医療センター高齢者歯科治療部門医員 2009年 同・助教 2013年 北海道大学大学院歯学研究院口腔健康科学分野高齢者歯科学教室助教 現在に至る
- 専門分野
- 老年歯科、補綴歯科、口腔ケア、摂食嚥下
※筆者の所属・役職は執筆当時のもの
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