面白がれるならやってみよう(阿武野 勝彦)
公開月:2023年1月
シリーズ第4回長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして
人生100年時代を迎え、1人ひとりが生きがいを持って暮らし、長生きを喜べる社会の実現に向けて、どのようなことが重要であるかを考える、「長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして」と題した、各界のキーパーソンと大島伸一・公益財団法人長寿科学振興財団理事長の対談の第4回は、阿武野勝彦氏・東海テレビ放送ゼネラルプロデューサーをお招きしました。
ドキュメンタリーに完璧はない
大島:本日は、東海テレビ放送ゼネラルプロデューサーの阿武野勝彦さんにお越しいただきました。阿武野さんは最初はアナウンサーとして配属されて、その後はドキュメンタリーを追いかけ続け、その熱心さにいつも感心しながら見ていました。
阿武野:ありがとうございます。大島先生との出会いは、1990年放送の『ラポールの贈りもの~愛知の腎臓移植~』のドキュメンタリーの取材でしたね。当時、大島先生は40代で中京病院の泌尿器科部長。初対面の時、明け方まで続いた手術のあと仮眠を取られていて、私が安眠を妨害したようでひどく不機嫌でした。アーサー・ヘイリーの『ストロング・メディスン』を渡されて、「これを読んでからまたいらっしゃい」と、体よく追い払われました(笑)。
大島:そんな対応したなんて全然覚えていません。あの本は感銘を受けた本なんですよ。
阿武野:先生にその本をお返ししなくてはと思いつつ、いまだに机の中にあります。大島先生の名古屋大学教授就任パーティーにも司会として呼んでいただきましたが、今日はこうやって対談をさせていただくなんて、長い時の流れと元気にやってこれたこと、とても嬉しく思います。
大島:今ではすっかり名プロデューサーと言われるようになりましたね。最初はアナウンサーから始められて、性に合わなかったということでしたね。
阿武野:そうですね。アナウンサーは人の書いた原稿を読む仕事で、それは練習して何とかできるようになりましたが、私はアドリブで喋れませんでした。頭に浮かんだことを一度文字に起こさないとカメラの前でしゃべれません。どう考えても向いていないので、7年ほどで配置換えを希望しました。ちょうどドキュメンタリー班に空きがあったので、上司も私も、渡りに船の異動でしたね。
大島:ドキュメンタリーの現場に入って、「これだ!」という感覚があったのですか。
阿武野:なかなか実感できない性質で、ドキュメンタリーをつくるごとに自分に足らざるものが見えてしまって、充実感に浸れるということはありません。『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』というゴーギャンの有名な絵がありますが、そういう答えのない事柄を追いかけているのであって、今回はやりきれたと思うことはありませんね。
大島:いいものをめざすが、できあがったものにどこか満足がいかないということですか。
阿武野:何というか、ドキュメンタリーに完璧はないのだろうと思います。常に課題が残る感覚です。生きている人を描かせてもらっていて、皆それぞれ事情があり、心模様があります。その時の最高の表現をめざしますが、作品として突っ切れなかったもの、描き切れなかったものを残して、また次の制作にトライしていく。取材対象のプライバシーと時間を収奪して世間にさらしているわけですし、完璧なものがつくれたなんて思ったら、傲慢な気もしますね。
ドキュメンタリーは事実の表現なのか
大島:取材側も人間だし、取材対象も人間であるから、その時の状況で変化するわけですね。そこに出てくる現象をとらえて、ドキュメンタリーは事実の表現と考えていいのですか。
阿武野:事実というのは、非常にむずかしいですね。ロングランで上映されている『人生フルーツ』(写真1)というドキュメンタリーがあります。愛知県春日井市の建築家・津端修一さんと妻の英子さんの老夫婦の暮らしを描いています。修一さんは「見ていればわかるから」と言って、"板付きのインタビュー"、いわゆるカメラを据えて向かい合って話を聞くようなインタビューは一度もさせてもらえませんでした。取材の間に修一さんはお亡くなりになってしまって、その後は関係した人たちの心の中に残っている修一さん像を聞いてまわる取材になりました。それによって"津端修一さん"の姿が見えてくる。現場ではこういうことがアクシデンタルに起こります。「その人のことは本人から聞かないとわからない」というのが唯一の「事実」ではなく、さまざまな人の心象風景から立ち上がる本人像のほうが、豊かだったりするんですね。人間の面白さと同時に、映像表現の深まりを感じる瞬間ですね。
大島:阿武野さんが考える"深い表現"とはどのようなものでしょうか。
阿武野:いろいろな解釈ができるものという気がします。たとえば、「何が言いたいかわからない」と言われると、むしろ「しめた」と思います。今はわからなくてモヤモヤしていた事柄が10年後に街を歩いていたら、「あれはそういうことだったんだ」と急に氷解することがあります。人間にはそういう能力があると信じて、ドキュメンタリーを放送したり上映したりすることは豊かなコミュニケーションだと思っています。だから、多様に解釈できる余白のある作品は、深くて素晴らしいと思っています。
大島:理想はわかるけれど、組織としては採算が合わないといった話も出てくるでしょうね。
阿武野:民放はとかく「数字」重視で、視聴率、営業の収支など、リーマンショック以降は特にその傾向が続いています。世の中の役に立っているか、どんな影響を与えたかなど、内容は二の次です。地域におけるメディアはどうあるべきか。インターネットの時代に、新聞、テレビ、ラジオといった旧メディアは問われています。その問いへの1つの解答にならないかと、「数字」とは真逆のことをドキュメンタリーで展開したらどうなるだろうと、映画化を始めました。
大島:阿武野さんは今でこそ、これだけの実績を積んで社会的地位もありますが、途中は苦労も多かったのではないですか。
阿武野:会社の中にいる表現者なので、いつでもクビを切られます。一度営業に飛ばされ現場を離れたこともありましたが、スタッフが残ってくれていて、表現を完遂する集団がしっかりできていて、途切れず前に進むことができました。それでも「ドキュメンタリーは必要か。賞を取れないなら必要ない」といった風潮もありました。そういう攻撃は受け流してきましたが、2011年に東日本大震災があり、東海テレビで「セシウムさん事件」という岩手のお米を風評被害にさらすような出来事がありました。そこから経営のやり方が間違っていないか問題提起をし、社内の意識改革も視野に入れながら、ドキュメンタリーの使命をアピールして今に至ります。
観るたびに違う発見がある
大島:阿武野さんにも大きな波があって、ほされても、これまで一緒にやってきた仲間という財産があって、それが大きな力になっていくという土壌がつくられてきたわけですね。
阿武野:そうですね。膨大な取材テープを編集していく中で、スタッフ全員で試写します。そこには、役職や職種、年次は関係なく、遠慮なく意見の出せる場をつくってきました。はっきりものを言ってもらったほうが新しい気づきが起こり、表現が豊かになります。
大島:実際に人と人との考え方や感性が交錯するわけで、取り巻く環境としては、損得勘定もあり、好き嫌いもあり、いろいろな価値観もありますよね。その中で1つのドキュメンタリーを完成させる時に、何か"阿武野イズム"のようなものがあるのでしょうか。
阿武野:最初に「この題材をドキュメンタリーにしたい」と言い出した人間の熱量を直感します。題材を持ってきた時に、「本気だな」と思えた時は「ノー」とは言いません。それが最終的に皆を引っ張っていく力になるからです。もう1つは、忖度なしに自分たちの表現を思いっきりやり尽くすことです。そうすると、ほかにはない、何かゴツゴツとした、重厚な表現になっていきます。
大島:ドキュメンタリーにおいて表現の理想形というのはありますか。
阿武野:まだはっきりわかりませんが、大阪での『人生フルーツ』の上映会を思い出します。観客の皆さんに「何回観ましたか」と質問したところ、初めての人はいませんでした。2回、3回目が少数、4回、5回目で多くの人が手を挙げ、8回観た人がいました。映画館まで来なくては観られないのですが、「なぜ8回も観たのですか」と聞いたら、「観るたびに違う発見がある」とおっしゃいました。ちょっと驚きでした。やはり、よい作品とは、多様な解釈ができ、観ている人の年齢、環境、その日の気分、いろいろありますが、違う発見をもたらすのだなと思いました。
大島:私も『人生フルーツ』を何度か観ましたが、最後まで目が離せません。新しい発見をするために何度も観るわけではないでしょうが、繰り返し観たくなる気持ちはよくわかります。
ドキュメンタリーを映画館で上映すること
阿武野:2011年から全国の小さな映画館でドキュメンタリーの上映を始めました。インターネット時代になぜオールドメディアの真骨頂のような小さな映画館で上映するのかとよく言われましたが、子どもの頃に映画館で体験した「不特定多数の人と、同じ空間で同じ映像を共有する喜び」を大事にしたいと思っています。
大島:初めから映画館でドキュメンタリーを上映することを考えていたのですか。
阿武野:考えていませんでした。ドキュメンタリーはテレビ界では、「観られない、売れない、クレームが来る恐れがある」という3つのネガティブ要素があるので、民放ではある意味、裏街道です。ですから全国ネットで放送されるチャンスはありません。そこで、映画ならと思いました。そうしたら、映画館で上映された後は、「○○年作品」という形で再現性が増えて、いつでも、どこでも、引き出して観てもらえるようになりました。
大島:ドキュメンタリーを劇場上映するという発想は非常にユニークですよね。
阿武野:テレビの人たちからは、ドキュメンタリーを劇場上映しても儲からないとか、映画の世界の人たちからは作品が「テレビ的だ」とか批判されました。ですが3作、4作とやっていくうちに、「東海テレビのドキュメンタリーにハズレなし」という評判が突然付きました。諦めずにやり続けていると道は拓けていくのですね。
大島:仲代達矢さんや樹木希林さんのような大物役者が「出演してよかった」という感じで作品に参加されていますね。どのように出演依頼をしたのですか。
阿武野:私は報道畑なので芸能界のしきたりを知らないので、むしろそこが強みです。お願いに行けば「変なやつが来た」と楽しんでくれて、そのうちに継続して出演していただくようになりました。皆が諦めている大女優・大物俳優を口説き落とし、その人たちが世の中に発信する力があれば作品にとって幸せなことですから、当たって砕けろ、でいいと思っています。
大島:そういう食らいついたら離さないというエネルギーはどこから出てくるのでしょうか。
阿武野:私も60歳を過ぎて、もうあっさり味になってすぐ諦めてしまう感じですが、スタッフのほうが粘着質になって諦めてくれません。2023年1月から『チョコレートな人々』(写真2)というドキュメンタリーを映画館で上映します。東海テレビドキュメンタリー劇場第14弾です。障がいを持った人たちとチョコレートをつくることで世の中を変えていこうと、愛知県豊橋市の実業家が「久遠(くおん)チョコレート」を展開しています。ディレクターが19年がかりで取材を続けて、数年前から注目を集めることが起きています。その様子を1本の映画にまとめました。ナレーションは大女優の宮本信子さんで、信子さんにはこれまで15本ほど出演いただいています。私たちの代えがたいスタッフだと思っています。
大島:阿武野さんのエネルギーが次の世代に注入されて、若い人たちに"阿武野イズム"が引き継がれているという印象を受けますね。
生きていればきっと面白がれることがある
大島:私は阿武野さんの書籍『さよならテレビ』(平凡社新書)を読んで、樹木希林さんの「面白がれるならやりなさい」という言葉がとてもしっくりきました。
阿武野:希林さんはやるべきかどうか迷ったら、「面白がれるならやりなさいよ」とおっしゃっていました。「面白がれる」と「楽しい」はちょっと違います。積極的に自分から働きかけていき、ただ面白いだけじゃなく、苦労も挫折もあるかもしれないけど、とにかく進んでいく。その山あり谷ありも面白がれることなんだと教えていただきました。迷った時はいつも希林さんの言葉を思い出します。希林さんと一緒に仕事ができると思っていませんでしたが、一度出演いただいたあと、『人生フルーツ』『神宮希林』など多くの作品に出演いただきました。岩手から沖縄まで全国を旅しましたし、海外も3回同行していただきました。希林さんはお亡くなりになりましたが、私の心の中にずっと生きています。
大島:いい言葉ですね。生きることにどんな意味があるかはわからないけれど、この先、生きていれば、きっと面白がれることがある。それだけでも生きていていいんじゃないかと、腑に落ちる言葉です。希林さんと阿武野さんの関係性がうらやましいです。
阿武野:この仕事の面白さは、人との出会い、縁に尽きると思います。だから若いスタッフにはいつも言っています。「やらなきゃ損。面白がりなよ」。希林さんの受け売りですが......。
大島:希林さんの「面白がれるならやりなさいよ」は若い世代への生き方のメッセージととらえることができます。今日は阿武野さんのお話を聞いて、ドキュメンタリー制作は映像を通してのコミュニケーションだと強く感じました。これからも人の心に響くドキュメンタリーを発信し続けていただきたいです。
対談者
- 阿武野 勝彦(あぶの かつひこ)
- 東海テレビ放送ゼネラルプロデューサー
1959年生まれ。1981年同志社大学文学部卒業後、東海テレビに入社。アナウンサー、ディレクター、岐阜駐在記者、報道局専門局長などを経て、現在ゼネラルプロデューサー。2011年『平成ジレンマ』で、テレビドキュメンタリーの劇場上映を始め、『ヤクザと憲法』『人生フルーツ』『さよならテレビ』などをヒットさせる。2018年一連の「東海テレビドキュメンタリー劇場」で菊池寛賞を受賞。著書に『さよならテレビ―ドキュメンタリーを撮るということ』(平凡社新書)がある。
- 大島 伸一(おおしま しんいち)
- 公益財団法人長寿科学振興財団理事長
1945年生まれ。1970年名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、1992年同病院副院長、1997年名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、2002年同附属病院病院長、2004年国立長寿医療センター初代総長、2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター理事長・総長、2014年同センター名誉総長。2020年7月より長寿科学振興財団理事長
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