いつも元気、いまも現役(生命誌研究者 中村桂子さん)
公開月:2022年11月
可愛らしい女の子のような軽快さ
青色に白の縦じまのゆったりしたシャツに、薄グレーのプリーツパンツ、小さな縁がついた黒い帽子というさわやかな夏の装いで颯爽と現れた生命誌研究者の中村桂子さん。
「生命誌」研究とは、生命科学の知識をふまえて38億年前に地球に生物が誕生してから多種多様な生物の壮大な歴史物語を読み取る作業だ。また、博物学や進化論、DNA、ゲノム、クローン技術など、人類の「生命への関心」を歴史的に整理し、科学を文化として捉えるものだ。
長い間、わが国の生命科学界をリードしてきた著名な研究者のイメージとは違って、屈託のない笑顔で挨拶する姿はまるで可愛らしい女の子のようだ。首にはカエルをモチーフにしたペンダント。「地球に生きている生きものは、すべて38億年前に生まれた最初の生命体を祖先とする仲間」という生命誌の考えを表しているようだ。
5人きょうだいの長女として生まれ戦争で疎開とお米不足を経験
1936(昭和11)年1月1日、中村さんは東京で5人きょうだいの長女として生まれた。兄、桂子さん、弟、妹、弟の5人きょうだい。四谷の住宅地で育ち、四谷第三小学校に入った。戦争がだんだん激しさを増し、9歳のとき山梨県下部温泉に集団疎開後、父の勤める窯業の工場がある愛知県高浜に疎開した。このときお手伝いに来ていた漁師の娘さんが採れたてのカニやエビ、野菜をどっさり持ってきてくれたものの、肝心のお米は兵隊さんに供出していたために不足気味。大量のお芋に米粒が少し貼り付いたお芋ご飯ばかりで、「白いお米が食べたかった」と中村さんはいう。東京の家は空襲で焼け、子どもの頃の写真はすべて失った。
宇宙開発競争とライフサイエンスの勃興の時代
戦後、麹町中学校からお茶の水大学附属高校を経て、東京大学理学部化学科に入学、3年生のとき1953年にワトソン、クリックが発見したDNAの二重らせんを知る。大学院へ進み28歳のとき生物化学を修了し、国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)研究員となり、製鉄会社の研究所に勤務する東大同級生と結婚した。
30歳で長女、32歳で長男を出産し、一時退職して、育児をしながら翻訳などの仕事をした。この頃、1969年にアポロ11号が月面着陸を果たして宇宙開発に弾みがつくとともに、70年代は米国を中心にライフサイエンスが盛んになり、がんとの闘いが注目されるようになった。
1971年、中村さん35歳のとき、恩師の江上不二夫氏が初代所長となる三菱化成生命科学研究所に社会生命科学研究室長として職場復帰した。このときの同僚にエッセイストとして知られる柳澤桂子さんがいて、中村さんは「同じ桂子でよく間違われました」と笑う。
生命誌研究者としての立ち位置と生命誌館設立へ
「1980年代半ば、生命科学に何か物足りないものを感じ始めていました」と中村さんは述懐する。「純粋に生きもの、さらには生命に向き合う知がなければならないのに、という疑問と悩みが日を追って深くなっていきました」。そこで「生命誌」という言葉に行きつく。
そして生命誌研究館設立構想に理解を示した日本たばこ産業の企画部顧問となったのが、中村さん55歳のとき。中村さんは55歳を「人生の折り返し点」という。20歳を人生の実質的出発点とすれば、90歳までの人生の半分は35年後の55歳という計算だ。「当時は定年退職も55歳でしたが、私はそのようなことは考えずに、ただただ前を見ていました」と振り返る。
1993年にJT生命誌研究館が大阪府高槻市にでき、中村さんは副館長になった。館長は生命科学の大御所である岡田節人(ときんど)氏だ。「岡田先生に館長をお願いするという大事なことをお会いもせずに電話でしてしまいました。今思うと冷や汗ものです。それでも岡田先生は『いいよ』と即答されました。後で伺うと『僕は大事なことは1秒で決める』と言われました」
東京と高槻市との二重生活を30年近く
中村さんは副館長9年、館長18年の長きにわたって東京と高槻市の二重生活が続くことになる。月曜日の朝6時に東京の家を出て、金曜日の夜に東京に戻るという生活だ。住まいは京都市の二条城近くのマンションの上階。かつて御所の清涼殿があったあたりで、清少納言が『枕草子』で「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」と書いたように、春の朝6時ころ東山から陽が昇る。まさに1000年前、清少納言が見た同じ光景を目にしたと感動した。
2年前に生命誌研究館の名誉館長になって東京に事務室を設けられたが、コロナ禍で事務室には行けず、もっぱら自宅での仕事になった。世田谷区成城にある600平米の自宅からは富士山を望み、落ち葉の掃除に余念がない。月1回、世田谷トラストが運営する「お庭開放」に登録している。約40人の参加者が中村さんの庭を散策している。
現在は、今でも製鉄関係の会社に出勤している夫とスウェーデン語翻訳者の娘さんと3人住まい。最近、明治初期の製鉄所を調べていた夫が釜石市にわが国のコークス炉のルーツがあるはずだと突き止め、実際に掘り返してみると、本当に遺跡が出てきて産業遺産に登録された。
どんな年齢にもその年齢のよさ、楽しさがある
「年齢を重ねるにつれて、生きものとしての自分を外から見る気持ちになれるのは面白いと思います。急に86歳になるわけではなく、今日は昨日とつながっていきます。30代も50代も同じ仲間です。それぞれの年齢の自分は一度しか味わえないのですから」
「『老い』は見かけは決して美しくないかもしれないけれど、長い間一生懸命生きてこうなったのだから、よく見るとすてきなものです」
この心境を「蟲(むし)愛(め)づる姫」の話に託している。これは今から1000年前の平安時代、京都に住むお姫様が「世間では蝶をきれいというけれど、あれははかないものです。考えが深そうで毛虫のほうがいい」とじっと観察した。するとこの毛虫が美しい蝶になることがわかり、生きる本質があることを知るという話だ。こうした感覚は生命誌と通じるものがあり、実際、生命誌館の入口には蟲愛づる姫のイラストが描かれている。
「早く、早く」と子どもに言わないで
「最近、見ていて心配なのは子どものことです。大人は子どもに『早く、早く』といい過ぎます。機械に効率を求めることはありますが、人間に"効率よく"はありません。このことを話したら30代の男性保育士が『もし僕が子どもたちに早く早くと言ってやらなかったら、将来社会でちゃんと生きていけなくなるから』と言いました。そう信じているのです。早く早くでなきゃ生きていけない社会は間違っていると思います」と語気を強めた。
「マルバツですべて割り切る考え方も同様です。生きることは、わからないことの中で生きることです。わからないことに耐え、考え続けることが上手に生きることです」
そして、「生物の世界では区別はありますが、差別はありません。私は競争が嫌いなのは差別につながるからです。私の辞書には『競争』の文字はありません。アリもライオンもタンポポもバラもみんな生きもので、それぞれ一生懸命に生きた結果、共生しています。いろいろな生きものの中の1つの自分を意識するという"生きもの感覚"を持つことが大切です」
生まれたところと同じところに戻る
詩人のまど・みちおさんの「生まれたところだけがふるさとではなく、死んでいくとこもふるさと。宇宙をふるさとにすれば、一緒のところになります」という言葉は、生命誌の考え方に通じるという。生と死は対語ではないと考えると、死もそう恐れるものではない。
生命誌を深めるための思索と講演会などに過ごす日々である。生命誌の最先端を歩んできた人が自らを観察して「老いは愛(め)づるもの」という。それを今年3月に『老いを愛づる─生命誌からのメッセージ』(中公新書ラクレ)にまとめた。
一貫して流れる基本的考えは、「人間は生きものであり、自然の一部」というごく当たり前のこと。「生きもの」らしく自然体で暮らす─それが当たり前でない現代社会の歪みに「これっておかしいですよね」と繰り返した。
撮影:丹羽 諭
プロフィール
- 中村 桂子(なかむら けいこ)
- PROFILE
1936(昭和11)年1月東京・四谷に5人きょうだいの長女として生まれる。四谷第三小学校・麹町中学校からお茶の水大学附属高校へ進学。1959年東京大学理学部化学科卒、同大学院理学系研究科生物化学専攻修了。国立予防衛生研究所研究員を経て、三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任。1993年JT生命誌研究館副館長、2002年JT生命誌研究館館長、2020年JT生命誌研究館名誉館長となり、執筆、講演など忙しい毎日を送っている。著書に『自己創出する生命』(ちくま学芸文庫)、『科学者が人間であること』(岩波新書)、『生命誌とは何か』(講談社学術文庫)など多数。毎日出版文化賞(1993年)、大阪文化賞(2007年)、アカデミア賞(2013年)など受賞
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