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いつも元気、いまも現役(プロスキーヤー・登山家 三浦雄一郎さん)

 

公開月:2022年1月

難病から復帰して聖火ランナーの"奇跡"

 札幌市中心部にある自宅マンションの隣部屋にある事務所でお会いした。がっちりした体形で、濃紺のラフなシャツにトレーニングパンツで身を包み、両手で杖をつきながら現れ、ゆっくり椅子に腰かけた。

 2021年6月、富士山5合目で行った東京オリンピックの聖火ランナーの姿はテレビでも大きく報じられた。「その時、数分間だけ突然霧が晴れました」とうれしそうに話す。

 実はこの1年前に特発性頸椎硬膜外血腫という難病で8か月間の入院となっていた。これは頸椎を守る硬膜の外側に血腫ができ、それが脊髄を圧迫して運動麻痺や感覚障害を起こすというもの。右半身が完全にしびれて動かなくなっていた。

 入院のはじめの2か月間は寝たきりの生活で、退院後の認定調査では要介護4という重い状態。しかし、難病に打ち勝って聖火を運ぶという具体的な目標が三浦さんを奮い立たせ、リハビリに励み、聖火ランナーを見事に果たした。

 その回復ぶりに医師は「私は"奇跡"という言葉は使いたくないが、これは間違いなく"奇跡"です」と言ったという。

オリンピック出場を閉ざされプロスキーヤーの道へ

 三浦さんは1932年10月12日に青森県青森市で生まれた。父敬三さんは北海道帝国大学林学部で林業を学び、スキー部に所属していた。極度の近眼だったために兵役は免れ、青森県営林局(現・林野庁森林管理局)に入局した。

 「私は3度目標を失いかけました」と三浦さんは述懐する。その1つが小学4年生に結核性肋膜炎で入院したこと。「治ったらスキーに連れていってやる」と父から言われて奮起。退院後、父と山形・蔵王から仙台までスキーで山越えを果たした。

 父が東京勤務になって府立十二中(現・都立千歳高校)に入った。同級生に俳優の仲代達也、日産自動車元社長の塙義一がいた。父の勤務地が変わるごとに青森・黒沢尻中学、中学3年の夏に旧制青森中学(青森高校)に編入。ここで初めてスキー大会の「岩木山弾丸滑降」に出場して優勝。のちに新制弘前高校に転入した。

 19歳で全日本スキー選手権大会の滑降競技で2位入賞、青森県高等学校スキー大会で3年連続個人入賞。24歳で北海道大学獣医学部卒業後、獣医師に、その後、同大学薬理学教室教官助手となった。

 26歳のとき、全日本スキー選手権青森県予選閉会式でスキー連盟幹部にたてついたため、アマチュア資格を剥奪された。これによってオリンピック選手の道が閉ざされてしまった。これが2つ目の「目標を失った」ことだ。

 そして3つ目が3年後にプロスキーヤー・登山家になるまでの「潜伏期間」である。「今となればオリンピックの夢を閉ざされたことがプロスキーヤーにつながったから、かえってそれがよかった」と振り返る。

 「いつも何とかなるという楽観主義できました」

写真:インタビュアー三浦氏がスキーをする様子を表わす写真。
登山と滑降で数々の記録を残した(©ミウラ・ドルフィンズ)

貧しくも幸せな「潜伏期間」を経て日本を代表するプロスキーヤーに

 「オリンピック出場の目標を失って妻朋子と東京行き、妻は新宿の洋装店でアルバイト、僕は蔵前の『エバニュー』というスキー用品・登山用具を扱う会社に入社した。そこに芳野満彦という登山家がいた。新田次郎の山岳小説『栄光の岩壁』のモデルなった人物だ。住まいは六本木、福原健司という山岳カメラマンで映画のプロダクション社長の豪邸の物置に住んだ。しばらくして大塚の4畳半プラス台所のアパートに引っ越した」

 まさに貧しくとも幸せな日々が自伝に綴られている。「目標があれば、辛いことも辛くなくなる」というのは三浦さんの言葉だ。

 東京に出てきて3年後の32歳、イタリア・キロメーターランセのスピードスキー競技大会で時速172.08キロメートルの世界記録を出すことになる。それからスキーヤー・登山家としての快進撃が始まる。

 34歳でパラシュートを使って富士山を直滑降、38歳でエベレスト8,100メートルからスキー滑降、7,980メートルから直滑降、51歳には南極最高峰ヴィンソン・マシフへの登頂とスキー滑降、さらに53歳で南米最高峰のアコンカグア登頂と滑降で世界7大陸最高峰のスキー滑降を終えた。そして70歳、75歳、80歳でエベレスト登頂と、日本を代表するプロスキーヤー・登山家となる。

写真:三浦氏が80歳の時に3度目のエベレスト登頂を果たした時の様子を表わす写真。
2013年、80歳で3度目のエベレスト登頂を果たした(©ミウラ・ドルフィンズ)

過酷な事故で負傷病気にも見舞われた

 1983年、南極最高峰ヴィンソン・マシフで九死に一生を得た。4,500メートルで氷河の岩陰で紅茶を飲もうとしたら突風が吹いてミトンの手袋にお湯がかかった。一瞬のうちに手袋が凍り始めて、凍傷を免れようと大急ぎで下山して体温を上げて助かった。

 南極の無名峰をスキーで滑ったときには大きな雪崩に巻き込まれたこともあった。同じく南極でアンザイレン(安全のために互いにロープで体を結び合う)をしていてクレパス(氷河の割れ目)に落ちて宙ずりになったこともある。そして76歳でスキーのジャンプで失敗して大腿骨頸部と骨盤など5か所骨折した。

 「でも、そんなに出血しなかったから運がよかったのでしょう」

 事故ばかりではない。2003年、70歳でエベレスト初登頂を果たした後、強度の不整脈となり心房細動と診断された。75歳での2度目の登頂前に3回、そして80歳の挑戦直前の手術も含めて、実に7回も心臓の神経を遮断するカテーテル・アブレーションの手術を行っている。今回の頸椎硬膜外血腫もなかなかやっかいな病気だ。

 「今回は神経だから回復に時間がかかるでしょう」と本人はゆったりと構えている様子。

マイナスからトップに達する壮絶なドラマ

 三浦さんの何がすごいのか。それぞれの記録もさることながら、ゼロからトップをめざすというよりも、マイナスからトップに達するという壮絶なドラマがあるということだろう。

 たとえば60代に太り過ぎて典型的なメタボとなった。特に肉が好きで、1度に500グラムも食べるという具合。その結果、高血圧、高脂血症、糖尿病と生活習慣病のオンパレード。家の階段を上るのも大変になり、札幌市内の531メートルの藻岩山にも登れなくなってしまった。

 そこで負荷をかけて歩く訓練を始めた。片足ずつに重りを入れ、背にも重りを入れ、最初は1キロ、3キロと徐々に増やしていき、とうとう片足に10キロ、背に30キロとなっていた。そうした訓練を続けた結果、骨密度が増え、膝関節の痛みも消え、生活習慣病が全部なくなってしまったという。

 「人間にはそういう回復能力があるのです」と自信たっぷり。それも当時70歳でエベレストに登るという目標があったからだ。そしてその目標は75歳、80歳と3度のエベレスト登頂達成につながる。

 そのたびに家族は当然反対した。すると三浦さんは「エベレストに行かせないなら、家出してやる!」とすごむ有様。「ドキドキワクワクこそが目標」とばかり突き進んできた。

写真:三浦氏の骨太でがっちりした手を表す写真。
骨太でがっちりした手は数々の偉業を成し遂げてきた

老いも若きも励まし新たな目標は宇宙開発に

 現在は週4回のリハビリとマッサージ、天気のいい日には歩いて10分ほどの旭山記念公園を散歩する。「今は無理ですが、徐々に回復して、またスキーをやりたい。春には藻岩山を登り、90歳で富士山登頂」と目標は続く。

 かつて全国から講演に呼ばれてこうした話をすると、三浦さんの生き方に感動して車いすで来た高齢の男性が「わしは歩いて帰る」と車いすから立ち上がって帰ったとか、しばらく途絶えていた趣味の庭の手入れを再開して家族を驚かせた人もいたという。

写真:三浦氏のお父様から伝授され毎日行っている「舌出し体操」と「片鼻呼吸」の様子を表わす写真。
101歳で亡くなった父敬三さんもスキーヤーで、99歳でモンブランを滑降した。その父親から伝授されたのが「舌出し体操」と「片鼻呼吸」だ。毎日実践している三浦さんは「単純だが理にかなっています」

「三浦校長に負けるな!」高校生も勇気づける

 人を励ますのは若い人も同じだ。現在も三浦さんが校長を務める全国に1万人以上の生徒がいるクラーク記念国際高等学校では、2022年に創立30周年を迎え、それを記念して「日本の百名山リレー登山プロジェクト」をスタートした。これは三浦校長の挑戦スピリッツを継承して、全国のキャンパスがリレー方式で百名山の登山に挑戦するというもの。

 熊本校でも3,333段の階段を3年間上って、卒業式の1段で1万階段を達成するという行事も続いている。そのときのスローガンは「三浦雄一郎校長に負けるな!」である。

障がい者スポーツから宇宙開発まで夢は広がる

 次男の豪太さんは1994年のリレハンメル、1998年の長野オリンピックの男子モーグル日本代表選手で、その後、医学博士号(順天堂大学)を取得した。

 「息子が開発中のハンディキャップのスキーの実験材料になりたい」と三浦さんは言う。

 さらにクラーク記念国際高等学校では東京大学らと連携して「宇宙教育プロジェクト」を開始した。これは宇宙飛行士の山崎直子さんをアドバイザーに迎え、日本初の高校生による衛星「クラーク衛星1号機(仮)」の開発という壮大な計画。

 これに三浦さんは「ぜひ打ち上げを見届けたい」と目を輝かせた。

撮影:丹羽 諭

プロフィール

写真:話し手の三浦雄一郎氏の写真。
三浦 雄一郎(みうら ゆういちろう)
<PROFILE>
1932(昭和7)年10月12日青森県青森市で生まれる。父敬三さんは日本の山岳スキーの第一人者で、その影響で幼いころからスキーを始める。10歳のとき、父に誘われて山形蔵王から仙台までスキーで山越えをする。17歳、スキー大会「岩木山弾丸滑降」で優勝。19歳、全日本スキー選手権大会の滑降競技で2位入賞。青森県高等学校スキー大会で3年連続個人入賞。24歳、北海道大学獣医学部卒業。同大学の薬理学教室教官助手。26歳、全日本スキー選手権青森県予選閉会式で、スキー連盟関係者と対立し、アマチュア資格を剥奪される。29歳、アメリカ世界プロスキー協会の会員となり、世界のプロスキーレースに参戦。32歳、イタリア・キロメーターランセに日本人として初参加し、世界新記録を樹立。34歳、富士山スキー直滑降。その後、世界7大陸最高峰登山でスキー滑降を遂げる。70歳、75歳、80歳と3度エベレストに登頂。

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公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health 2022年 第30巻第4号(PDF:6.8MB)(新しいウィンドウが開きます)

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