老いも死も当たり前 あるがままを受け入れる(田代 俊孝)
公開月:2021年10月
シリーズ第2回長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして
人生100年時代を迎え、1人ひとりが生きがいを持って暮らし、長生きを喜べる社会の実現に向けて、どのようなことが重要であるかを考える、「長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして」と題した、各界のキーパーソンと大島伸一氏・公益財団法人長寿科学振興財団理事長の対談の第2回は、田代俊孝氏・仁愛大学学長、行順寺住職をお招きしました。
生きている時に死をどう解決していくか
大島:本日は浄土真宗の行順寺(ぎょうじゅんじ)の住職で、仁愛(じんあい)大学学長の田代俊孝(しゅんこう)先生にお越しいただきました。田代先生には私の師匠の岩月舜三郎先生(ピッツバーグ大学外科教授。名古屋大学第二外科出身。世界の移植医療の基盤を構築。「臓器移植の父」と呼ばれるスターツル教授の下で肝臓移植を行う。2016年75歳で逝去)の生前葬で大変お世話になりました。2000年に岩月先生が60歳で生前葬をやるということで、私を含めた3名が葬儀委員をしました。田代先生がピッツバーグにいらした時に、岩月先生と面識があったということで、生前葬を田代先生にお願いさせていただきました。
田代:私は1992年にカリフォルニア州立大学に留学していました。そして、全米の大学を訪ね、デス・エデュケーション(いのちの教育)や死生学のリサーチをしていました。その時にピッツバーグ大学での宗教的ケアの現状を説明してくださったのが岩月先生です。
ご自宅にもお招きいただきお邪魔しました。ご自宅には小さなお仏壇がありました。「日本から持ってきたばかりで入仏の法要をまだしていない。あなたはお坊さんだから、ここでお願いできないか」と頼まれました。非常に信心深い方でした。そんな御縁があり、私が留学から帰った後、大島先生が私の寺へ来てくださり、岩月先生の生前葬をしたいとのことでお引き受けしました。
大島:岩月先生が50歳の時に10年早い還暦の会を開いたのですが、その時に「あと10年生きたら生前葬だ」と言っていました。そして、冗談ではなく60歳で生前葬をやることになりました。当時ピッツバーグ大学は移植医療の中心地で、日本から移植を志す人が研修に行きましたので、岩月先生が関わった人は多いんですね。生前葬にはたくさんの人が集まりました。岩月先生は「あの日から俺は仏になった」と言っていました。生前葬の時には、横にたばこと酒を置いていましたが(笑)。常識では語ることのできない豪快な人でした。
田代:岩月先生の生前葬の話を聞いた時、私は「なるほど」と思いました。というのは、死後をどう考えるかというよりも、むしろ生きている時に死の問題をどう解決していくかが本来の仏教だからです。
浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)(1173-1262)は、「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」と言っています。つまり、死後ではなく現生(この世で生きている間)に正定聚(往生という救済の自覚)を得るということです。死の問題は、生きている時に解決するべきなのです。
たとえば「あの世」に関しても、お釈迦様は「あるかもしれないし、ないかもしれない。思いを超えたことだから考える必要のないことだ」とおっしゃっています。死後の世界のあるなしにとらわれると苦しくなる。「生はプラス、死はマイナス」、「長生きがよくて、若死にはよくない」ととらえると、それも苦しみの種になる。そういうとらわれを離れることが本来の仏教の立場です。
あるがままをあるがままに自然法爾(じねんほうに)
大島:「人が生きる、生まれる」は面白いものですね。私は終戦直後の1945年9月に満州で生まれました。当時の満州の状況を知ったのは中学校に上ってからです。父が中学1年の時に亡くなりましたので、母しかいませんでした。生まれた時のこと、引き揚げの時のことを母はまったく話さない。とんでもなく大変だったことは想像がつくのですが、聞いてはいけないという雰囲気があり、その話題に触れることはありませんでした。
その時に思ったのは、「人が生まれる」ということほど理不尽なことはないということです。しかし、いつどこでどう生まれたかなど、恨んでも文句を言っても仕方がない。それで私は「人が生まれる」ということは面白いことだと思って生きてきました。自分ではどうしようもない何かがあるのかもしれないと思ったり、あるいは思いたいのかもしれません。
田代:思いがけず生まれてきたのですね。私も生まれてから今日まで毎日、毎日が思いがけないことばかりですよ。そして、思いがけず死んでいくのですね。それは思いを超えた仏の大きな働きの中に、大きな御手(みて)の中に生かされているということです。孫悟空が筋斗雲(きんとうん)に乗って三界を経(へ)めぐりまわっても、最後はお釈迦様の掌の中。私がここにいるのも自分の力ではなく、関係性によるのです。つまり、ご縁(縁起の法)のままに生かされていたのです。そういう大きな掌(てのひら)の中にありながら、「生はプラス、死はマイナス」と思うから、とらわれて苦しまねばならないのです。
いただいたものをいただいたままに、「生きる時は生きればよかろう。死ぬる時は死ぬるがよかろう。これ災難を逃れる妙法なり」。これは良寛(りょうかん)(1758-1831、曹洞宗の僧侶)の言葉です。大きなものに目覚めたら自然のままでいいのです。
岩月先生自身の生前葬の文章の中に、「死ぬ時がくれば死ぬ。地獄へ行けというのならそれも面白い。覚悟もくそもない。あとは自然に任せるだけ」とありました。この「あるがまま」を浄土真宗では「自然法爾(じねんほうに)」といいます。
大島:私が岩月先生に移植を教わっていた頃に言われた印象的な言葉があります。自分は移植をやっている。医療は健康な人を傷つけることはあってはならない。ところが移植医療では健康な人に手術をして腎臓をいただく。健康な人に手術をして傷つけるのは許されることではない。だから行先は地獄しかないというのです。ついでに「お前も同じだ。腹を決めろ」と言われました。時々ギョッとするような言葉をズバッと言うんですよね。
田代:親鸞が『歎異抄(たんにしょう)』の中で、「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と、「地獄が私の住処(すみか)です」と言っているのです。岩月先生は親鸞の心境に通じるものを体感しておられたのでしょう。
思い通りにならない死を知ることが死を超えていく道
田代:私は「ビハーラ」という仏教による終末期の患者の心のケア、いわゆる仏教ホスピスの活動を始めて、はや30年が経ちます。ある緩和ケア病棟のドクターがこう言っていました。語弊があり、すべての方がそうだとは思いませんが、「高学歴、高収入の人ほど往生際が悪い。ひどい人はドクターに不平不満ばかり言ってくる。それに比べて、田舎で農業をやって自然相手に暮らしている人は淡々と死を受け入れる」というのです。
大島:それは非常によくわかる気がします。
田代:「長いいのちがよく、短いいのちはだめ」とはからいをして、そのはからいが自分を苦しめている。思い通りにならないいのちを思い通りにしようとするから苦しくなる。ところが農業をやっていれば、干ばつ、冷害、水害を経験して、思い通りにならないことがあることを知っている。農業の人はそれを肌で知っているから、淡々と死を受け入れるのです。
「そういう出会い(学び)は死んでからでない。今なのだ」と親鸞は言います。そういう意味では岩月先生はちゃんとわかっていたのだと思います。先生はそういったとらわれを離れたくて生前葬をしたいと言ったのではないでしょうか。
いただいた世界にわれわれは生かされている
大島:われわれ戦後世代は、科学技術が猛烈に発達してきた時代に育ちました。要するに頭の中が科学です。そのせいか、あの世や仏のように目に見えないものを考えると、まったく壁にぶつかってしまいます。親鸞の時代には、民衆が素直に信仰を受け入れる土壌があったのでしょうか。
田代:平安中期、源信(げんしん)(942-1017、天台宗僧侶)の書いた『往生要集(おうじょうようしゅう)』に地獄極楽の話が出てきます。生前に徳や善を積めば、臨終の時に仏が迎えに来てくれて極楽浄土へ行ける。これを「来迎(らいごう)思想」といいます。そのために生前、一生懸命徳を積むべきという仏教の1つの考え方です。
それに対して、親鸞はいくつか疑問を持ちます。当時の仏教は公家や武士の選ばれた人のもの。一方親鸞は農民を相手にするのです。生前に徳を積むといっても、毎日畑仕事をしている農民に徳が積めるのか。あるいは、死ぬ時に心を正しくして臨終行儀(作法)を守りなさいと言うが、どんな死に方をするかわからない。さらには、死後の世界のあるなしの話になると解決がつかない。徳を積んでお迎えが来るという来迎思想は万人に普遍性がないということです。
そこで親鸞は「生きている時にとらわれを離れる」と説くのです。あの世の考え方が一般化されていた時代に、親鸞は「あの世はあるかもしれないけれど、生きている今が大切。今、仏の智慧(ちえ)によって自分の中にある苦の原因を知り、価値観の転換をはかるべき」というのです。
大島:親鸞の師、法然(ほうねん)(1133-1212、浄土宗の宗祖)とはどう違うのでしょうか。法然は「あの世を信じて、南無阿弥陀仏の念仏を称(とな)えればあの世に行くことができる」と説かれて、またたくまに民衆に受け入れられたと理解しています。
田代:親鸞は法然をさらに展開したということです。法然は大きな人で、見方によって違います。他の弟子の方は福徳を求めて念仏を修行のようにたくさん称えましょうと言われたと受け止めておられます。
大島:百万遍ですね。
田代:そうです。ところが、親鸞の法然理解はそうではない。念仏は仏の世界からの呼び声だから、「聞く念仏」です。「念仏を称えること」は「念仏を聞くということ」。仏の声としての念仏を聞くことによって、仏の智慧としての働きに目覚めていくということです。
自分ではどうにもできないことも、価値観が変わることによって、大きな仏の世界と、逆にちっぽけな自分を知ることによって生かされていたのだと気づく。要するに「自分で生きているというよりも、仏からいただいた世界に生かされている」と思うと楽です。これを他力(たりき)思想といいます。
いつ死んでも不思議でない私が今生きている
大島:年を重ねて自分事(じぶんごと)として死を意識するようになりました。若い頃は言葉では死を語りましたが、「人の死」であって「自分の死」ではありませんでした。医者ですから死を日常的に見ていますし、そういう意味では、普通の人よりも死が近い。特に移植医療は死と直結している医療です。自分の死と他人の死では、同じ死でもまったく違います。
田代:われわれ住職も同じです。お葬式に行ってご遺体を見る。これは人の死です。身近な人であればあるほど、その死はより自分事として考えられます。自分の死を考えると、今生きていることが不思議に思えてくるのです。誕生の瞬間から、いつ死んでも不思議ではない私が今生きている。
平均寿命を80数歳と考えると、来年も再来年もある。ところが事実は、「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕べには白骨となれる身なり」というように、いつ死んでも不思議でない。朝、健康だった若者が夕べには死んで白骨になることもある。これは蓮如(れんにょ)(1415-1499、浄土真宗の僧)の「白骨の御文(おふみ)」の名文で、浄土真宗の葬儀の後に必ず拝読されます。
だから「今を生きなさい」ということです。蓮如は人間の無常の有り様を示しています。「身の上を自覚せよ」「死を自分事として考えよ」と。価値観をひっくり返されるような宗教との出会いです。
大島:「白骨の御文」はとても身近に感じられます。日本では高齢化率30%を超えようとしています。2060年には若者1.5人で1人の高齢者を支える社会となり、人口は8,000万人台、現在の3分の2にまで減ると言われています。超高齢社会の後に来る「多死社会」。人口の多くを占める高齢者が亡くなり、人口が減少する社会です。そのような中で、社会福祉や社会保障の問題もさることながら、心の問題がこれから大きくなると思います。
特に今、老老世帯・独居高齢者が増えています。極めて当たり前のように社会が独居を受け入れていますが、こんな国は世界中にありません。居住形態の最後が独居というのは日本特有です。その時に宗教、特に仏教の役割はますます大きくなっていくのではないかと直感的に思います。
田代:今、在宅医療やいろいろな場面で「看仏連携」といわれます。私がビハーラに関わる中で、いつも違和感を覚えるのが、「仏教を利用して安らぎや癒しを与える」という言葉です。仏教は癒しの道具ではありません。仏教は自ら体験するものです。仏教を体験し学ぶところに、結果的に苦を超えていく道が開けていくのです。科学的な立場で仏教を利用しようとすれば、仏教でなくなってしまいます。
即物的なものを追い求めて、「こんなはずではなかった」と死んでいく。一方、仏教による学びを得て価値観を離れた人は、痛くても苦しくてもどんな死に方をしてもいい。置かれた場所をきちんと自分のものとして受け止めていく。
ノートルダム清心学園理事長でシスターの渡辺和子さん(1927-2016)は、「置かれた場所で咲く花になりなさい」とおっしゃっています。裏庭に咲いている花は場所を選べないが、いただいた場所で精いっぱい咲きほこっている。
われわれは変な価値観を持っているから不平不満が出る。だからその価値観を離れて、70歳は70歳、80歳は80歳の、いただいたものをいただいたままに、まさに「自然法爾」です。価値観を転換することで、「これでよかった」という最期を迎えられるのです。死んでいく身のままで助かっているのです。
大島:そうすると、そういった学びをどこでするのかが重要になりますね。
田代:かつての日本社会は田舎の文化で、お寺と密接な関係がありました。法要や法話会があればお寺に行く。ところが都市ではそういった関係が希薄になってきました。さらには、宗教は怖いという価値観がうえつけられています。宗教が身近に入りにくい土壌があります。
アメリカやヨーロッパでは求めたい人のために、それに応じた宗教が提供されます。たとえば、岩月先生のおられたピッツバーグ大学にもチャペルがあり、患者が希望したらチャップレン(教会・寺院に属さず組織で働く聖職者)が法話をしてくれます。そういう自由と平等があります。
大島:やはり自由平等の文化ですね。日本のように、これほど科学や合理主義が浸透した国もめずらしいでしょう。
田代:私は三重の田舎に住んでいるのですが、田舎の人と都会の人を見て異質なものを感じます。そういう文化が失われていくのは、都市化の弊害かもしれません。
デス・エデュケーションで「無常」「無我」の境地を得る
大島:これから高齢社会がますます進み、「多死社会」となり、死亡者も増えていきます。一方で少子化が進んで墓を守る人がいなくなり、「墓じまい」をする人も多くなるでしょう。宗教心が希薄になっていく社会の中で、この流れに対抗する新しい試みはあるのでしょうか。
田代:新しい動きというと、1つは、お坊さんがお寺から介護施設や病院に出向いて仏教を学ぶ場をつくることです。
もう1つは、大学に死生学やデス・エデュケーション(いのちの教育)の講座をつくることです。死の問題は老いてから、1から理解するのはむずかしいです。だからこそ若いうちに「いのち」や「死」について考える機会を持つことです。宗教ではなく、哲学的な意味合いでの「生と死」を問いかけていけば、必ず仏教哲学に出会います。
「死をタブー視せず、正面から見つめる。人は死に、自分も死ぬ。いのちの尊さを知り、死を自然なサイクルの1つとして受け入れる。いのちの長短に関係なく、いのちが満足できること」。このようにいのちや死の見方が変化していく。高度な教養としてデス・エデュケーションを受けることです。仏教の言葉を借りれば、「無常」や「無我」の教育に他なりません。
大島:アドバンス・ケア・プランニング(ACP)を進める若い医師などにもデス・エデュケーションが必要だと感じます。いのちや死の哲学に触れることによって、ACPの取り組みがプラスの方向にいくと感じます。
田代:さきほどの話ですが、われわれは科学や合理主義的なものを絶対視するような考え方に立っています。そういった考え方のカウンターカルチャー(対抗文化)が仏教であるといえます。龍樹(りゅうじゅ)(150-250頃)というインドのお坊さんで哲学者がいます。その考え方は「中道」で、両サイドのとらわれを離れるという考え方です。プラスでもマイナスでもない、あるがままをあるがままに。そうすると、生もない死もない、「無生無死」です。
それを中国の曇鸞(どんらん)(476-542)というお坊さんが、「生死は亀毛(きもう)のごとし」と面白い喩(たと)えで言っています。つまり、生死は亀の毛のようだと。亀に毛は生えないですが、慶事に用いる掛け軸を見ると、毛がふさふさと生えている。ですが、あれは毛ではなく藻です。本来ないものをわれわれは勝手にあるように思っているのです。
常でないものを常だと思うことに苦しみがある。老いも死も病も当たり前、あるがままを受け入れる境地が開かれる。まさに我を離れた「無我」の境地です。そういうとらわれから離れる哲学があることを、ある時期に学ぶ機会を持てば、もっと楽に生きることができると思います。
大島:その話はよく理解できます。誰もが人生のある時期にいのちや死の哲学に触れることが大切だと感じます。
超高齢社会の中で、今は高齢化のほうに目が行っていますが、これからは多死社会になっていきます。その中で仏教がなす役割はどのようになっていくと思われますか。
田代:今の時代は「高齢化」、その先に「死」がある。その中で違った形で社会的ニーズが出て、仏教の新しい役割を生み出せるのではないかと思います。私がビハーラ運動を始めた30年前には、ビハーラがこんなにも全国的に広がるとは思いませんでした。ビハーラが広がった背景には、がんの告知やがん患者が増えたこと、「死をどう受け入れるか」に直面する人が増えたことがありますから、これからの時代が新しく生み出すものがあると感じています。
大島:超高齢時代が目の前にあり、今も大変ではありますが、今の30代40代が高齢者になる頃がもっとも厳しい時代になります。田代先生にはいのちの教育やビハーラ活動を通して、どんな人生でもよしと、あるがままを受け入れられる真のQOLの実現にこれからも尽力いただきたいです。本日は貴重なお話をありがとうございました。
対談者
- 田代 俊孝(たしろ しゅんこう)
- 仁愛大学学長、同朋大学名誉教授、同客員教授、名古屋大学医学部講師、行順寺(三重県)住職、文学博士
1952年生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。カリフォルニア州立大学客員研究員、同朋大学教授、大学院文学研究科長を経て2018年より仁愛大学学長。真宗学、デス・エデュケーション(いのちの教育)、ビハーラ(仏教ホスピス)、死生学、生命倫理学など幅広い分野で活躍。著書に『仏教とビハーラ運動-死生学入門-』(法藏館)、『暮らしのなかの〈いのち〉論』(方丈堂出版)など多数
- 大島 伸一(おおしま しんいち)
- 公益財団法人長寿科学振興財団理事長、国立長寿医療研究センター名誉総長
1945年生まれ。1970年名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、1992年同病院副院長、1997年名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、2002年同附属病院病院長、2004年国立長寿医療センター初代総長、2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター理事長・総長、2014年同センター名誉総長。2020年7月より長寿科学振興財団理事長
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