人生は常に道半ば
公開日:2019年9月30日 09時05分
更新日:2019年9月30日 09時05分
柴田 博(しばた ひろし)
桜美林大学名誉教授
きわめて具体的な日々の過ごし方に関してはいざ知らず、基本的な人生観に人生50年時代も100年時代も大きな違いはないであろう。
多くの人々は、比較的若いときに、自分の生きる目標のようなものを心に決める。そして、それを達成しようと必死に生きていくことになる。その人生の目標が、一定の収入を得るとか、特定の地位を得るとか具体的なものの場合、50年の人生と100年の人生では、日々の過ごし方に違いが生ずるかもしれない。
しかし、若いときに抱く人生の目標は、もっと抽象的であり無期限的なものである。文学においても然りであろう。夏目漱石は1916年に49歳の生涯を閉じた。この年に生まれた大西臣人は、倍近い88歳の天寿を全うした。
私の忖度では、自分の文学が道半ばであるという思いは、2人の文豪に差がなかったということである。もし、違いがあったとしても、それは生きた長さではなく、別の要因によるものと想像する。
凡人である私にも、高等学校の終わりまでに自分の人生に課していくべき目標のようなものが形成された。それは、幼少期のトラウマに端を発している。
私は、終戦の1年前、1944年に国民学校に入学した。1年生の3学期、父がサケ・マスを養殖する千歳孵化場の場長として赴任し、そこの官舎に住むこととなった。この官舎は空港のある千歳の市街から支笏湖(しこつこ)方向に8km離れていた。当時は交通機関はなく、子供用の自転車もなく、雨の日も雪の日も歩いて通学するしかなかった。途中はアイヌ部落であり、最年少であったこともあり、アイヌの子供達に守られながらの毎日であった。
冬など、弁当の握り飯が凍ってしまい、午前中に授業が終わるときは、みんなで歩きながら食べた。歩きながらでは寒さに耐えられないときは、走りながら食べた。
読者の中には、何故学校の教室で食べなかったのか訝(いぶ)かる方も居られるだろう。これには理由がある。学校の教師が、私には教室に残って、ストーブで温めて食べることを勧めたが、アイヌの子供には声かけがなかったのである。最年少でもっとも遠くから通っていた私は、アイヌの子供達の心身のサポートなしには帰宅できなかったのである。
当時、アイヌ人に対する偏見と差別(ときに虐待)は酷いものであった。子供同士の仕打ちも今のいじめとは比較できないほど残酷であった。一人でクラス全員と戦っているアイヌの子供もいた。教師や親もそれをあおりこそすれ、制止することは稀であった。
私自身は、アイヌの子供に日々恩を受けながら、彼等の受けている仕打ちを抑止することも和らげることもできず、忸怩(じくじ)たる思いに毎日悩まされていた。5年生の春、父の転勤にともない、札幌市の郊外の小学校に転向してからも、千歳時代の屈辱はトラウマとなり、甘いノスタルジーとない交ぜになって、心の晴れることがなかった。
高校時代、雑学乱読の中で、パスカルの『パンセ(瞑想録)』に遭遇した。そこには衝撃的な格言があった。「正義なき力は圧制であり、力なき正義は無力である」というものであった。自分の幼少期からのトラウマの核心を衝くアフォリズムであった。
正義と力という矛盾を止揚するための弁証法という学理を勉強するようになった。そして生涯、正義と力の矛盾を止揚することを人生の目的と意識するようになった。受験勉強もせず、校内の新聞や文芸部の雑誌に雑文を書くようになったのも、その目的を意識してのことであった。
それから、60余年、いまだに達成できない目標を追いかけている。大学の定年を終えても、目標が道半ばなので、研究活動を止めることができない。現在82歳であるが、昨年(2018年)には写真にある本を上梓した。1つは日本語、もう1つは英語であるが、世の中に広がった誤った健康常識に一矢を報いようとしており、自分としては正義のつもりでいる。しかし、半世紀近く、同じことを主張しつつ、まだ少数派でしかないのは力のない証しである。たとえ、100歳まで生きて活動できたとしても、正義と力の矛盾を止揚する手立てを確立することはできないであろう。人生は50年時代も100年時代も常に道半ばなのである。
著者
- 柴田 博(しばた ひろし)
- 1937年 北海道生まれ 1965年 北海道大学医学部卒業 1966年 東京大学医学部第4内科医員 1972年 東京都養育院附属病院(現 東京都健康長寿医療センター病院)医員 1993年 東京都老人総合研究所副所長(現 名誉所員) 2002年 桜美林大学大学院老年学教授(現 名誉教授) 2011年 人間総合科学大学保健医療学部長 2016年 社会福祉法人三光会 最高顧問 現在に至る。医学博士 日本老年医学会専門医・老年病指導医 日本応用老年学会理事長。