まちづくりから福祉を考える(大沢 勝)
公開日:2023年4月28日 09時00分
更新日:2024年8月13日 15時19分
こちらの記事は下記より転載しました。
シリーズ第5回長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして
人生100年時代を迎え、一人ひとりが生きがいを持って暮らし、長生きを喜べる社会の実現に向けて、どのようなことが重要であるかを考える、「長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして」と題した、各界のキーパーソンと大島伸一・公益財団法人長寿科学振興財団理事長の対談の第5回は、日本福祉大学名誉総長、愛知県社会福祉協議会名誉会長の大沢勝氏をお招きしました。
"日本一の経理マン"をめざして
大島:第5回対談には、日本福祉大学名誉総長・愛知県社会福祉協議会名誉会長の大沢勝先生にお越しいただきました。大沢先生は1962年から日本福祉大学で教鞭をとり、のちに財務担当の常務理事として大学の財政再建に尽力し、その後は理事長、学長、総長を歴任され、現在の日本福祉大学の基盤を築かれました。大沢先生は現在91歳。今も現役で福祉の世界でご活躍されています。先生はもともと福祉の世界から日本福祉大学に入職されたのではないですよね。お生まれは福岡県でしょうか。
大沢:福岡県八幡市、現在の北九州市八幡東区です。高校卒業後は八幡製鉄に就職しました。大学進学も考えましたが、母子家庭でしたので、母の側で母を支えたいと思ったのです。
大島:八幡製鉄には長く勤務されたのですか。
大沢:2年ほどです。本事務所の経理部に配属され、当時の額で5〜6億円という大きなお金を右から左へ動かしていました。手回し計算機やそろばんの腕を磨いて、"日本一の経理マン"になってやろうと意気込んでいました。
大島:当時というと入社は何年ですか。
大沢:1950年です。入社してまもなく朝鮮戦争が始まり、日本は特需景気で一時的に潤いましたが、翌年の休戦協定締結の動きと同時に不況のどん底に陥りました。その時、入社2年目の私はつらい役目を負うことになりました。傘下の下請け企業に納期厳守を求める一方で、支払いは1か月後から3か月後、6か月後と延期しなければならず、下請け企業はバタバタと倒産していきました。下請け企業の中に大変世話になったオヤジさんがいて、ある日、タバコ好きの私にラッキーストライクをワンカートン持って訪ねてきました。「請求書の1枚だけでいいから支払い順を先にしてほしい。そうでないと会社がつぶれる」と言いました。しかし、私はどうしてもそれを受け入れることができませんでした。オヤジさんの請求書を先にすれば、代わりに他の請求書が後回しになるからです。そして、その翌々日、オヤジさんは自殺してしまったのです。
大島:タバコの賄賂に屈せず、正論を通した結果、そのような悲劇が起きてしまったのですね。
大沢:オヤジさんを殺してしまったと自責の念に駆られました。周りからは「お前のせいじゃない」と言われましたが、私がタバコを受け取らなかったことが最後の引き金になったと思います。
大島:その不幸な出来事が会社を辞める動機につながったわけですね。
大沢:会社を辞めても八幡にいる限り忘れることはできないので、東京に出ることにしました。先のことはまったく考えずに故郷を離れたので、とにかく「居場所」を見つけなければなりません。それで大学に進学することを決めました。高校を卒業して2年のブランクがあったので、受験教科が少ない文学部にしぼり、早稲田大学第一文学部哲学科に合格しました。
大島:退路を断って突き進む。大沢先生の一貫した生き方ですね。先生の生き方を垣間見るような気がします。
人生を変える親友と出会って
大島:早稲田大学では大学院まで進んでいらっしゃいますね。
大沢:大学院では親友に出会いました。鈴木忠臣(宗音)君です。日本福祉大学を創設したお寺の息子さんで、この出会いがのちに日本福祉大学とのご縁につながります。忠臣君のお父さん、鈴木修学先生は名古屋にある日蓮宗・法音寺の初代住職です。お寺の住職を務めながら、福祉に携わる人材を育成するために日本福祉大学を創設しました。修学先生は戦前、弱者救済にあたる救済団体の活動に身を投じ、新婚当時は福岡市の生(いき)の松原にあるハンセン病療養所の経営者を務めていました。
大島:ちょうどその頃はハンセン病の隔離施設ができ始めた時代ですね。
大沢:そのようにハンセン病への偏見が強かった時代、修学先生はハンセン病患者と一緒に風呂に入って垢を流して患者の苦しみに耳を傾けたそうです。戦後、先生は名古屋に法音寺を開山し、「福祉の人材を育てることなしにハンセン病を救えない」と一念発起し、日本福祉大学の前身となる短期大学を創設しました。1957年には4年制大学となり、日本福祉大学ができました。
大島:大学院修了後は研究者を含め他の道という選択肢もあったと思いますが、日本福祉大学へ赴任することを決めたきっかけは何だったのでしょうか。
大沢:忠臣君のお父さん、修学先生との約束です。大学院の夏休みを利用して、忠臣君の実家のお寺に遊びに行きました。忠臣君が席をはずした際、修学先生は私に「息子はいずれ大学の理事長・学長になるだろうから、困った時には助けてやってほしい」と言いました。その時、私は深く考えもせずに「喜んでそうさせてもらいます」と答えてしまったのです。
大島:つまり日本福祉大学の創設者との約束がきっかけで、親友を助けるために日本福祉大学に赴任したということですね。
大沢:そのとおりです。その後1962年に修学先生は急逝されました。その頃、忠臣君は日本福祉大学で教育学を教える「鈴木宗音先生」になっていて、父親の他界で急きょ学長職を継ぐことになりました。そうすると宗音先生の教育学の講座に穴が開きます。そこで宗音先生から「教育学の専任講師として大学に来てほしい」と誘われ、赴任することを決めました。
大島:日本福祉大学に赴任したときには、そこに骨をうずめるという覚悟だったのですか。
大沢:正直に言えば、「3年も勤めれば」という気持ちでした。何よりも修学先生との約束を守らなければという気持ちのほうが大きかったですね。
大学をつぶすわけにはいかない
大島:当時、日本福祉大学は名古屋市昭和区にありましたが、実際に赴任してどうでしたか。
大沢:文部省の官僚から「馬小屋」と言われるほどの、木造平屋の粗末な大学でした。でも不思議なことに、女房・子どもを連れて名古屋に引っ越してくるまで大学を一度も見ていませんでした。先に見ていたら赴任を断ったかもしれませんから、見なかったのも何かの縁でしょう。
大島:大学の経営にも先生は関わられるわけですが、いかがでしたか。
大沢:赴任早々、同僚から「この大学、いつつぶれるかわかりませんよ」と言われて、私は「大学は簡単につぶれませんよ」と言い返しました。「つぶれない」と言ったらつぶさないようにしなければならないから、自分への励ましですね。赴任6年目には、八幡製鉄の経理部出身で手回し計算機とそろばんが得意という理由から、経営再建を担う財務担当理事に抜擢されました。最初に手を付けたのは、放ったらかしになっていた収支や経営状態を調べて財政管理システムを変えていくことでした。東京の公認会計士の力を借りながら経理諸帳簿の近代化を図りました。
大島:どんぶり勘定だった経理を近代的なシステムに変え、財政の立て直しから始めたということですね。現在、私は日本福祉大学の理事をしていますが、経営も理事会もしっかりしています。そこにたどり着くまでには大きな苦労があったのだろうと想像します。その後は大学の総合移転という大きな事業に取り組むわけですが、移転を決めた経緯は何でしょうか。
大沢:名古屋市昭和区のキャンパスは手狭で教育研究環境が十分でないので、学生の数も増えていきません。それではいつまで経ってもジリ貧のままですから、狭いキャンパスを出て広い敷地に大学を総合移転する必要がありました。幸運なことにたくさんのご縁と協力を得て、知多半島南部の美浜町に総合移転を果たしたのは1983年のことです。
大島:それからほどなくして学生を乗せたバスの大きな事故があったと記憶しています。
大沢:移転から2年も経たない1985年のことです。スキー実習の学生を乗せたバスが長野県の犀川に転落して46名のうち22名の学生と教員1名が亡くなるという大惨事が起きました。大学史上、世界最大の事故です。当時、私は財務担当理事でしたが、学長・理事長の宗音先生が体調を崩してしまったことで、学長・理事長職を委託されました。彼を助けるなら今しかないと思ったのです。その後1987年には宗音先生から学長職を引き継ぎ、一遺族を除くすべてのご遺族への弔問とお詫びを3年半かけて行いました。学長の在任期間の12年間、大学の責任者として十三回忌まで営ませていただきました。
大島:そのような苦難を乗り越え、日本福祉大学の経営再建、総合移転という大事業を果たし、「ふくしの総合大学」として大きな発展を遂げる土台を築かれました。大沢先生のその功績は大きいと思います。
大沢:私の人生を考えてみると、決して一本道ではありませんでした。修学先生との約束がきっかけで大学に赴任しましたが、いつしかそこが「居場所」となっていました。たどり着いた先が自分の「居場所」と考えれば、飛び込むことは怖くありません。飛び込んでみると自分の世界が拓けていくものですから、若い人にはまず一歩を踏み出してほしいと思います。
福祉の原点は人々の暮らし、人との触れ合いの中にある
大島:大沢先生が名誉会長を務めている愛知県社会福祉協議会では、市民参加型の「あ・い・ち・ふ・く・しシンポジウム」(中日新聞社、中日新聞社会事業団共催)を開催されていますね。一般の方に福祉を知ってもらう素晴らしい試みだと思います。
大沢:これまでは国際会議場などの大きな会場で開催してきましたが、ここ数年はコロナ禍で開催形式を変えながらも、2022年には10回目を迎えることができました。超少子高齢・人口減少社会という難題が山積する中で、一人ひとりがたとえ弱ったとしても、できる限り最期まで安心して生活できる社会をつくるために何が必要なのか、一般の方たちと共に考えるシンポジウムです。
大島:私もこのシンポジウムに登壇させていただき、福祉とは生活なんだということがよくわかりました。私が医師になった時代は医療と福祉は別のものという考え方でしたが、今は医療と福祉は一体です。改めてこれからの福祉を考えるうえで大事なことは何かを伺いたいと思います。
大沢:「福祉とはいったい何か」とむずかしく考えると、なかなか福祉が進まないような気がします。私は福祉を「まちづくり」の観点から考えています。福祉へのアプローチは2通りあると思います。1つは「福祉の世界から福祉を深め広めていくこと」。もう1つは「まちづくりや人の集いから福祉に入ること」です。私は後者を"宝の山"と見ています。少子高齢社会は今後ますます進み、2030年〜2040年頃に大変厳しい状況を迎えると思います。その状況を打破するためには、福祉の現場から福祉を突き詰めていくことも大事ですが、大きな目で見て、「まちづくり」や「人とのつながり」から福祉を考えることが重要になると考えます。
大島:「福祉の原点は人々の暮らし、人との触れ合いの中にある」ということは、ここ10年大沢先生とご一緒させてもらう中で学んだことです。特に昨今はAIなど技術の進歩が進み、そこにコロナが重なり、接触を避けなければならない状況になりました。画面越しに面会や通信をする状況は今後も続くでしょう。その中で「人とのつながり」をつくり出す何か処方箋はありますか。
大沢:一例としては、名古屋市北区黒川のマンション「カーサビアンカ黒川」です。2階にクリニックやデイサービス、地域の居場所などの医療・介護モール、上階は若い世代、お年寄りが入居するマンションです。1階には大きなスーパーマーケットがあり、外に出ずとも買い物ができます。医療・介護が連携し、そこに生活の場や集いの場がある。これこそ「人の温かみ」を持った福祉といえるのではないでしょうか。まちづくりから福祉へアプローチすると無限の広がりが生まれます。
祭りに参加する感覚でまちづくりに参画する
大島:人生100年時代といわれる今、長くなった高齢期をいかに自分らしく過ごしていくかが問われています。その中で自分らしい生活とはいったい何なのか。「地域における居場所」と「福祉」を一体として考えることがますます重要になってくると思います。
大沢:その実現には時間がかかるでしょうが、今少しずつ、まちづくりから福祉に入る若者が増えてきています。彼ら自身は福祉に関わっているつもりはないですが、実はそれは福祉なんですね。何といっても人を巻き込む力がすごい。1人で活動していたのに知らないうちに大勢の力になっています。人の集い、コミュニティをつくることに長けているのは今の20代、30代です。
大島:一般に男性は人の輪に入ることが得意でないといわれますが、そういう人も巻き込んでいくようないいアイデアはありますでしょうか。
大沢:祭りに参加する感覚で、まちづくりに参画する。これが、これからの福祉に必要な要素だと思います。高齢者も若い人も、できるだけたくさんの人が"ごちゃまぜ"になって人の輪をつくり、祭りのような溶け込みやすい雰囲気をつくる。例えば、祭りの中で最初はためらっていた人も、輪に入って踊り出すと夢中になって楽しむものです。輪に入ることが苦手な人も取り込むように、人の集いをうまくアレンジするキーパーソンが何人かいて、その人たちを中心にまちをつくる。または、世代を超えて、子どもから大人、高齢者まで"ごちゃまぜ"に集まる「多世代共生の場」をつくることです。子どもが入ると自然に親も輪に入ってきます。また、10代以下の子たちから学ぶのも福祉の大きな役割です。さりげない優しさ、思いやり、温かいひとことがほしいですね。
大島:団塊の世代が後期高齢者となる2025年はもう目の前に来ていますし、さらに少子高齢社会が進む2040年には高齢者1人を1.5人の現役世代で支える社会になるといわれています。そのような中で医療・介護の充実に加えて、人々の暮らしやまちづくりの観点からの複合的な取り組みが不可欠だと改めて感じました。本日は貴重なお話をありがとうございました。
対談者
- 大沢 勝(おおさわ まさる)
- 日本福祉大学名誉総長、愛知県社会福祉協議会名誉会長
1931年福岡県生まれ。高校卒業後、八幡製鉄株式会社に勤務。同社退社後、早稲田大学第一文学部に入学。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。教育雑誌の編集を経て、1962年より日本福祉大学で教鞭をとる。以後、日本福祉大学の財政再建の中心的役割を担い、1986年より理事長、学長、総長などを歴任し、2002年名誉教授、2009年名誉総長に就任。また、1996年愛知県社会福祉審議会委員長、2008年愛知県社会福祉協議会会長、2013年全国社会福祉協議会副会長に就任
編集部:大沢 勝さんは2023年5月5日にご逝去されました。謹んでお悔み申し上げます。
- 大島 伸一(おおしま しんいち)
- 公益財団法人長寿科学振興財団理事長
1945年生まれ。1970年名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、1992年同病院副院長、1997年名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、2002年同附属病院病院長、2004年国立長寿医療センター初代総長、2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター理事長・総長、2014年同センター名誉総長。2020年7月より長寿科学振興財団理事長
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