記者の眼で社会を見つめて(鈴木 敦秋)
公開日:2024年10月18日 09時00分
更新日:2024年11月12日 16時33分
シリーズ第11回長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして
人生100年時代を迎え、一人ひとりが生きがいを持って暮らし、長生きを喜べる社会の実現に向けて、どのようなことが重要であるかを考える、「長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして」と題した、各界のキーパーソンと大島伸一・公益財団法人長寿科学振興財団理事長の対談の第11回は、元読売新聞編集委員で南医療生活協同組合専務室企画の鈴木敦秋氏をお招きしました。
医者と記者24年の付き合い
大島:今回の対談には、元読売新聞の医療担当記者の鈴木敦秋さんにお越しいただきました。鈴木さんとはもう20年以上の付き合いになりますね。
鈴木:私が2000年に医療担当になって最初に関わったテーマが医療事故で、その頃に大島先生にお会いしているので、もう24年ですね。大島先生は名古屋大学病院の副院長で医療安全対策の責任者をされていました。
大島:鈴木さんは2007年に『明香ちゃんの心臓』で講談社ノンフィクション賞、2018年には『いのちの値段』で日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞した優秀なジャーナリストです。鈴木さんのこれまでの歩みを簡単に紹介いただけますか。
鈴木:1990年に読売新聞に入社し、社会部を経て医療の世界に関わるようになりました。医療取材は20年以上になります。取材テーマは、「医療事故」「小児救急」から始まり、超高齢社会の到来や医療の専門分化、社会の変化に沿って変化し、記者最後の5年間は「認知症と家族」「命の値段」「意思決定」、そして「共生とまちづくり」へ移っていきました。
この間、2002年に大島先生が名古屋大学病院の医療安全対策の責任者として、医療事故に対する理念「隠さない、ごまかさない、逃げない」を公表され、これが医療安全・事故防止、あるいは医療事故発生時の対応を評価するスタンダードとなりました。その11年後、大島先生の言葉「治す医療から、治し支える医療へ」は、2013年の社会保険制度改革国民会議の報告書の根幹となりました。病院中心の医療から、地域全体で支えていく高齢者医療へのパラダイム転換でした。そこからさらに11年経って今日があるのですが、私自身は、どう猛に進歩する医療を追いかけてきた時代を経て、現在は名古屋市に本部を置く南医療生活協同組合(以下、南医療生協)に籍を置き、「医とまちづくり」「医療と人の幸せがどうリンクするのか」をテーマにしています。
「人の生き死にに関わる仕事」という意識
大島:鈴木さんの扱う「医療事故」は非常に繊細なテーマです。鈴木さんの場合、単に医療事故を報じるのではなく、医療事故の被害者家族へ取材を重ね、命の重さに直接関わる。医療事故がどのような社会的な意味合いを持つのか。鈴木さんの記事にはそういった社会に対する問題提起が常にあるように感じています。それは意識的にされているのですか。
鈴木:記者の仕事は「人の生き死に」に関わります。社会が生む理不尽に巻き込まれたり、望まない形での別離があったり。それが社会の矛盾の反映であっても、正解はなかなか見えません。けれど、声を聞かせてくれる方から「記者は答えを探すために命がけでやってくれるんでしょう」という言葉にならない期待を感じ、逃げられない責任を負う。そういう仕事ですから、自ずと視点が「社会」や「命を巡る人間の本質」に迫っていくのでしょう。
大島:そのように追求していくと、背負い切れないことが当然ありますよね。100人いれば100人の人生があり、医師や看護師、患者、患者家族それぞれの人生があります。取材をする中で、事実の隠ぺいや責任逃れなど、理不尽な事実が次々と見えてくる。それに直面し、その中に埋没していく感覚もあるでしょうし、何を言葉として選ぶかというジレンマもあると思います。
鈴木:ええ。偉そうに言っても、責任を果たしきれるものではありませんし、記事を書くことも、ノンフィクションとして記録に残すことも、その免罪符にはなり得ません。ただ、自分の姿勢に嘘がないよう、自分が今、歴史の縦軸と社会の横軸のどこに位置して、どの方向を目指しているのかを常に考えます。矛盾、混沌を感じつつ、自分の立ち位置を見つめながら、取材に関わってくださった方に対して、真摯でありたいと思っています。
大島:記者として「事実」と「価値観」と「自分の立ち位置」をどう調整していくのか。取材を続ける中で感情に流されることも当然あるでしょう。
鈴木:感情が揺れるからこそ、あるルールを身につけているのかもしれません。例えば、医療事故で医療側と患者側が対立し、患者側が圧倒的に弱い立場にある時、真ん中より半歩だけ患者側、苦しみをより負っている側に軸足を置く。そういうスタンスです。
自分の価値観をどこに置くか
大島:「価値観」や「立ち位置」の話をしますと、医療の中では、答えがないものにぶつかることが日常的にあるんですね。例えば、若い医師が主治医として患者に対応している。治療法は手術がベストだが、患者・家族の話を聞く中で、主治医が感情に流され、「彼の生活が壊れるので、手術はできません」と言う。生活に支障が出るかもしれないが、それは人生の一時期で、今何かを捨てたとしても完全な治癒が得られるならば、手術を受けたほうがいい。治療に要する時間を棒に振るのが嫌で、その後の人生を棒に振ることはあり得ない。医師にとって「最適な治療を行うという信念・価値観」は譲れないものです。患者の生活や人生観を聞きながら説得することも医師の重要な役割です。最終的には患者が決めることですが、医師が感情に流されて、自分の価値観を見失うことは決してあってはならない。
同じように、記者という第三者の眼で、人の人生というものを、医療や治療というものを見つめる時、自分の価値観をどこに置くのかということは、非常に難しい問題だと思います。
鈴木:確かに難しいのですが、どこかで「人間の善意と無限の可能性」を信じているのでしょうね。立場が異なる方々の対立を取材する時、その集積が混沌のままかというとそうではなく、対話を通じてひとつの突破口が生まれ、共通する価値観が見つかることがあります。それがあって記事が成立することがある。人間の可能性への信頼が価値観のベースでしょうか。
大島先生は「隠さない、ごまかさない、逃げない」から「治す医療から、治し支える医療へ」という変遷の中で、多くの価値を言葉にして残されましたが、その折々で先生から思考の格闘を教わってきたことが大きいです。要するに、「考え抜くしかない」、あるいは「気づいてしまった以上は逃げずに走り続けるしかない」。医者も記者も、職人って、そういうものなのでしょう。
記事で社会に問題提起を
大島:医師は実務者で人の命に直接関係していて、一方、記者は人の命から距離がある。距離があるからこそ、医療事故がなぜ起きたのか、第三者の眼で事実を見ることができます。手術で命を落とすという最悪な事態になった場合、結果が悪ければすべてが悪い。周りから責められ、説明をすればするほど、当事者は泥沼に入っていく。それを一歩引いて見ながら、ジレンマの中に医師がいることを見抜く記者と、とかく結果だけを責める記者がいます。鈴木さんにはそういう問題意識があって、表には現れていない、伝えるべき何かがあると考えたのですね。
鈴木:私は2000年に医療担当になりました。前年の横浜市立大学の患者取り違え事故から始まって、医療事故への批判の嵐が吹き荒れた時代です。「読者体験をお寄せください」と呼びかけると、週に100通ほど声が寄せられました。その大半は、医療者のヒューマンエラーではなく、「隠さない、ごまかさない、逃げない」の反対のケースが起きたことによる理不尽な体験でした。
当時2人だった医療担当になって間もない頃、東京医科歯科大学病院で薬剤投与ミスによる医療事故がありました。病院長が記者会見を開くというので、ずっと上の先輩と一緒に向かいました。会見場では、従来通り、追及型の会見が行われました。質疑応答の最後に先輩が手を挙げ、「病院が自ら医療事故を公表したことを、私は高く評価します」と語り始め、会場はシーンとなりました。その上で、「なぜ公表しようと思われたのですか」と問い、病院長は「我々も一層努力するが、それでも医療事故がなくならないとすれば、社会の問題として一緒に考えてほしい」という趣旨の話をしました。その会見が印象深く、私たちの視点や立ち位置によって、社会をよい方向に変えていけるのではと気づいたんですね。そういう瞬間が、かなり初期にあったんです。ノンフィクションを手掛けたのもその延長で、医療事故の当事者が、医療の不確実さや理不尽さをどう受け入れて生きていくのか。その物語を追いかけ記録することで、つらい記憶を弔い、一緒に社会を変えていけると考えたからです。
大島:鈴木さんの記事からは、その思いがよく伝わってきます。しかし、医療事故はいつの時代もなくなりません。医療者にとっては「隠さない、ごまかさない、逃げない」が大原則であることは言うまでもなく、記事を発信する人には、医療事故を責めるのではなく、社会に問題を投げかけ、社会全体で考えてほしいという願いが伝わるような記事をお願いしたいと思います。
医療者だけでは人の幸せを実現できない
大島:鈴木さんは昨今の日本の医療や医師の変化をどう捉えていますか。
鈴木:医療の変化は社会のニーズに即している面が大きいです。高齢化が進み、療養環境を巡る人々の価値観が多様化し、経済的な格差も広がる中、在宅医療が注目されました。大きな転換期でしたが、今や都心部では在宅医が飽和状態の地域もあります。また、2016年に「ニッポン一億総活躍プラン」が閣議決定され、翌年には「我が事・丸ごと」の地域共生社会を目指すとして、地域に課題が投げられました。2020年に地域共生社会に関する新たな事業「重層的支援体制整備事業」の創設へと続きます。要するに、従来の医療だけでは人生のQOLは上がらないし、幸せを実現できない。医療費をできるだけ抑えつつ、地域ネットワークの中で人をどう支えるかという流れが不可避になってきました。昨今では、総合診療、総合診療医がトレンドです。彼らの活動範囲の幅はとても広く、一口では説明できないのですが、入院中の患者さんをよい状態で早く地域に帰すというニーズを受けたものです。国は、その先に高齢者を地域で支えるという形を描いていますが、これも住民のニーズに外れたものではありません。
大島:実際に地域はうまく動いているでしょうか。
鈴木:残念ながら、なかなか進んでいない印象ですね。私がいる南医療生協で言えば、住民と「医療でまちづくり」を進めていますが、シニア世代と現役世代で、地域づくり、健康づくり、おたがいさまの支え合いに対する意識に大きく隔たりがあります。何より現役世代に余裕がなく、まちづくりに対する価値観には惹かれても、義務的な役割を担うことに抵抗がある。マイノリティーや社会的弱者が昔よりも多様になってきていること、家庭の経済的基盤が弱くなってきていることなどの社会的要因もあり、地域ネットワークの中で人を包摂していくこと自体の足場は、もろいと感じます。
大島:高齢化が進み、高齢者医療に医療需要がシフトしていますから、今後も在宅医療や総合診療の需要は増えていくでしょう。高齢者医療の需要は確実に増えていきますが、医師数は増えません。一方、医療はどんどん進歩し、最先端医療を支える医師も一定数必要です。どう計算しても両方の需要を満たすことは不可能ですから、次の一手としては、医師以外の人に医療を担ってもらうほかありません。医師の業務の一部を看護師に振り分け、看護業務の一部を介護職に振り分けてゆく。現時点で考えられる方法としては、これしかないと思います。同時に、必要な医師数も、紙の上に人口構成を書いてみれば一目瞭然です。疾病構造を右側に置き、地域ごとに医師、看護師、さらに介護職を割り当てれば、簡単に必要数・目標数が出ます。
鈴木:医療は不確実であると同時に、統計的な科学でもあるので、人口動態と疾病構造の変化を見れば、どうあるべきかという議論は可能です。ただし、患者さんや住民の人生や暮らしの質が十分に問われてきませんでした。
大島:確実なのは、高齢者が増えるということ。高齢者が増えると慢性疾患が増え、フレイルや認知症も増えます。超高齢社会ではこれから約10年は医療者の必要数は変化しませんから、医療者の具体的な目標数の確保と質の向上に向けて動く必要があると思います。
超高齢社会の本当の問題は20年後以降にある
鈴木:私は、超高齢社会の本当の問題は、20代〜40代の現役世代が20年後以降に直面する現実にこそあると考えています。団塊の世代は社会保障が担保された中で生きていけますが、今の現役世代が直面する高齢社会は、未婚率が高く、親の介護を1人で担い、非正規雇用で暮らしが安定しない中、崩れた社会保障の中で老いを迎えていく。
大島:簡単には言えないことですが、社会保障は20年持たないということですね。
鈴木:今の現役世代は、団塊の世代と同じような社会保障は享受できないと思います。
大島:では20年後以降に高齢者になる人はどうすればいいのか。
鈴木:人は一人では生きていけないので、何らかの人とのつながりが必要です。家族がいない、家族とのつながりが乏しいとしても、最期の意思決定も含め、頼れる人は人しかいません。その関係性をどのようにつくっていくのか。「ナイナイづくしの時代の関係性づくり」が現役世代の大きな課題です。その時代に医療はどう関与していくのか。医療はなお進歩と成長を求めるのか。このあたりは関心を持っているところです。
大島:医療は進歩し続けると見ていますか。
鈴木:例えば、がんや認知症が克服されたとしても、次の病気に向けて医療は進歩し続けると思います。医療の進歩は止まらず、それを得る人と得られない人の格差は広がっていく社会にならざるを得ないでしょう。しかし、大島先生の言う「ライフ」、人の生活・暮らし・人生を考えた時に、高齢になるほど人との関わりなしには生きていけませんし、ライフにおいて医療の進歩を最優先と考える人の割合は少なくなると感じています。
大島:100歳人生を長生きする人と、ある程度の年齢で寿命を迎える人の差が広がっていくということでしょうか。豊かであるか豊かでないかという経済格差の話に直結するような気がします。そうなると、富裕層は長生きだが、貧困層は早死にということになりますよね。
鈴木:アメリカ的になるというか、こと医療に関しては、選択肢を多く持つ人とあまり持てない人に分かれると思います。記者の最後の5年間に扱ったテーマのひとつに「命の値段」というシリーズがありました。命は平等だと言っても、実際に受ける医療や、特に療養場所・環境については決して平等ではない。
大島:それはいわゆる格差という形で今、広がりつつあるのか。
鈴木:国際的に見れば平等に保たれているように見える医療や介護も、制度の隙間にいる人たちが大勢おり、医療や介護単体では、受けられる人と受けられない人の格差がより広がると思います。医療や福祉に対する依存度や費用を抑えるねらいもあって「まちづくり」や「重層的支援」、地域ネットワークの中でその解を見つけようと取り組みが始まっていますが、そこから先、どんな社会、どんな医療をつくるべきか、合意をつくる仕組みは見えてきません。
58歳の誕生日に決意した2つの宿題
大島:鈴木さんは読売新聞を60歳で退職して、名古屋の南医療生協に籍を移しましたが、どのような経緯があったのですか。
鈴木:58歳の誕生日を迎えた朝、「宿題が残っている」と思ったんですね。ひとつは、地域医療を含め地域を取材して書いてきましたが、地域とは何かが実はわかっていない。もうひとつは、精神疾患の人たちのリアルな世界がわかっていない。この2つが宿題だと思いました。新聞社の記者として世の中を見ていると、視点が固定化して見えるものが見えなくなる。60歳になったらもっと地べたに近いところで宿題をやろう、そう思ったんですね。
以前からご縁があった南医療生協と、福島・南相馬で、震災以降、途切れることなく精神疾患のケアを行っている認定NPO法人「相馬広域こころのケアセンターなごみ」に連絡を取りました。「60歳まで記者をやった後、働けないか」と話したら、どちらからもOKの返事で、58歳の誕生日に60歳以降の仕事の方向が決まったんです。それもやはり大島先生の影響が大きいです。先生は60歳前に岐阜の山の中に家を建てられたでしょう。
大島:50代半ばですね。人のるつぼの中を生きてきた人生だから、ある程度の年齢になったら田舎で暮らすと決めていました。
鈴木:「70歳のことは70にならないとわからない、80歳のことは80にならないとわからないが、60歳は死ぬ準備を始める年だ」という大島先生の言葉が頭の中にあり、60歳が節目だとずっと考えていました。専門学校の通信教育を受けて、今年2月に精神保健福祉士の国家資格を取り、ひとつ目の宿題をやるために、今、南医療生協にいます。
大島:南医療生協に移ってどうですか。
鈴木:南医療生協は伊勢湾台風をきっかけに生まれた医療生協という組織で、65年の歴史があり、10万人の組合員がいます。その歴史、地域の広がりを舞台にして、その中で交わされてきた色々な実践知とか現場知を、人の物語の中から聞き出し、構成し直して、「これまで」と「これから」を書いていく。「これから」には自分も積極的に関わっていく。そこから、これからの高齢社会を生きるヒントが見えるのではないかと考えています。3年で「医とまちづくり」の本をまとめたいと思います。
大島:新聞社の記者と違って、現場で当事者として関わりながら記録することは新しい試みだと思います。南医療生協の人間ドラマの記録を楽しみにしています。今日はありがとうございました。
対談者
- 鈴木 敦秋(すずき のぶあき)
- 元読売新聞編集委員、南医療生活協同組合専務室企画
1963年東京都生まれ。明治大学卒業。商社勤務を経て、1990年読売新聞に入社。医療取材に長く関わり、2007年に『明香ちゃんの心臓--東京女子医大病院事件』で第29回講談社ノンフィクション賞を受賞。2018年第7回日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞受賞(長期連載『いのちの値段』)。2024年より南医療生活協同組合で「共生のまちづくり」に携わる。精神保健福祉士。その他の著書に『大学病院に、メス!』『小児救急』『いのちの値段--医療と費用を巡る50の物語』(いずれも講談社)などがある。
- 大島 伸一(おおしま しんいち)
- 公益財団法人長寿科学振興財団理事長
1945年生まれ。1970年名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、1992年同病院副院長、1997年名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、2002年同附属病院病院長、2004年国立長寿医療センター初代総長、2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター理事長・総長、2014年同センター名誉総長。2020年より長寿科学振興財団理事長。2023年瑞宝重光章受章。
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