健康長寿ネット

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第62回 ズート・シムズの思い出

公開日:2024年1月12日 09時00分
更新日:2024年1月12日 09時00分

宮子 あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業


私は昔からひとの家に行くと、ついつい本やCDに目がいってしまう。
その人がどんな本や音楽を好むかは、人となりを知る上で、またとない情報に思えるからだ。
この傾向は、訪問看護の時も同様だが、人によっては、私たちの訪問を喜ばない人もいる。
いきなり室内をじろじろ見るのは絶対御法度。気づかれぬように、さりげなく見なければならなかった。

ある時、40代初めの男性を初めて訪ねた際、雑然とした本棚の片隅に、何枚かジャズのCDが置いてあるのが目にとまった。
残念ながら、見覚えのあるものはなかったが、「ジャズが好きなんですね」と尋ねてみた。
すると、男性は子どものような笑顔を浮かべ、「ジャズが好きなんですね?」とオウム返しに尋ねて来る。
若い頃から長年統合失調症を患うこの男性は、礼儀正しく、穏やかな印象である。
私が、「はい、好きなんです。特に古いジャズが」と答えると、「好きなんだ、古いジャズが」。
そこでしばらく言葉が途切れた。
しかし、少しして、男性は「看護師さん、誰が好きなの?」と尋ねてくれた。
ジャズの話しをきっかけに、オウム返しから会話に発展した。
精神科の訪問看護は、会話を育てるのも大切な役割。
他愛もない会話こそ、関わりの成果である。
「私はね、ズート・シムズがとっても好きなんです。日本ではそんなに知られていないんですよね。コルトレーンなんかの方がうんとうんと有名。でも私は、ズートの明るい音が大好きなんです」
すると男性は、「ズート・シムズ、いいよね。『アット・イーズ』いいよね」
私は驚いて、思わず、声が大きくなった。
「え~!『アット・イーズ』、持っていらっしゃるのですか?」
「うん、持っている。でも、ここにはない。親の家に置いてきた」
ズート・シムズは白人のジャズテナー奏者。
1925年に生まれ、1985年に亡くなっている。
1963年生まれの私でさえ、彼のファンとしては若手だろう。
さらに10年程度あとに生まれた男性は、いったいどんな機会にズート・シムズを聞くようになったのだろうか。
「いつから聞いているんですか?」
「忘れた。『アット・イーズ』いいよね」
彼の反応から、これ以上は立ち入られたくないように感じられ、そのあとは深く聞かず、30分の訪問時間を終えた。
帰り際も、男性は笑いながら手を振り、「『アット・イーズ』いいよね」と言った。
「わかった。『アット・イーズ』ね。今度来る時までに聞き直してくる。感想言いますね」
「『アット・イーズ』いいよね」
「ええ。いいですよね。『アット・イーズ』」
久しぶりにいい訪問だと思った。

ところが人の運命はわからない。
翌週別の看護師が訪問すると、ドアには鍵がかかり、連絡がつかなかった。
すぐ両親に連絡を取り、合鍵で入ってもらったところ、男性は室内で亡くなっていた。
男性の死を知り、最初に思い出したのは、「『アット・イーズ』いいよね」と最後に言った時の、照れたような笑顔だった。
今度来る時までに聞き直す、と約束した『アット・イーズ』。
けれどもその時は永遠に失われてしまった。

しばらくして、私は『アット・イーズ』を聞き直してみた。
『アット・イーズ』は1973年の作品。ズート・シムズの代表作と言ってよい。
いかにもズート・シムズらしい、温かい演奏が素晴らしいと思った。
私にとってズート・シムズは、かけがえのないアーティストのひとり。
その音楽は、メロディアスでとてもわかりやすい。
そのせいか、コルトレーンのように崇められることなく、ポップなイメージなのも、親しみやすく感じられる。
男性とのやり取りを思い出すと、今も胸が詰まる。
10代の終わりから40代まで、30年近い病歴は、男性からあまりに多くのものを奪い取った。
それを思うと、ほんとうにやりきれない気持ちになる。
そのような中で、ズート・シムズの音楽は、少しでも男性の気持ちを和ませたのだろうか。
そう思うと、少しだけ、気持ちが楽になる。
『アット・イーズ』いいよね。

写真:猫の傍らに2枚のCD

<私の近況>
ズート・シムズと言って、ご存じの方はどれだけいるでしょうか。今はYouTubeで検索すると、どんな音楽でも聴ける時代です。よろしければ是非、聴いてみてください。......と言いつつ、私はついついCDを集めてしまいます。あまりにも量が多いので、ケースを薄い袋に入れ替えて保管。『アット・イーズ』(写真手前)も、一番気に入っている『ダウン・ホーム』(写真奥)も、こんなに薄くなっています。

著者

筆者_宮子あずさ氏
宮子 あずさ(みやこ あずさ)
看護師・著述業
1963年生まれ。1983年、明治大学文学部中退。1987年、東京厚生年金看護専門学校卒業。1987~2009年、東京厚生年金病院勤務(内科、精神科、緩和ケア)。看護師長歴7年。在職中から大学通信教育で学び、短期大学1校、大学2校、大学院1校を卒業。経営情報学士(産能大学)、造形学士(武蔵野美術大学)、教育学修士(明星大学)を取得。2013年、東京女子医科大学大学院看護学研究科博士後期課程修了。博士(看護学)。
精神科病院で働きつつ、文筆活動、講演のほか、大学・大学院での学習支援を行う。

著書

「まとめないACP 整わない現場,予測しきれない死(医学書院)、『看護師という生き方』(ちくまプリマ―新書)、『看護婦だからできること』(集英社文庫)など多数。ホームページ:ほんわか博士生活(外部サイト)(新しいウインドウが開きます)

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