第1回 暁斎と眼鏡
公開日:2018年4月24日 14時21分
更新日:2022年11月29日 11時15分
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河鍋 楠美(かわなべ くすみ)
蕨眼科院長、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館理事長・館長
「長寿」をテーマにした画がないか、暁斎※の作品を見直したところ、眼科医である筆者の職業柄、眼鏡を描いた絵が目に留まった(図1)。眼鏡をかけているのは七福神の福禄寿。地本問屋の店先でしげしげと鑑賞中のようだ。左下には「笑ふ門には福来たる」の文字が見える。七福神といい、縁起のよいもの尽くしの一図である。
この画は『狂斎百図』の中の一枚だ(「狂斎」は暁斎の前名)。「百図」とあるが、最初は四枚もしくは八枚を袋に入れて販売していたようで、現在までに百五図が見つかっている。この七福神図は全図の末尾を飾る一枚として描かれたことが、左にいる店主が寿老人に広げて見せているまくりに「狂斎百図 大尾」と書かれていることからわかる。
他の図も諺をもとにユーモアや風刺を効かせた作品ばかりで、幕末から明治にかけて繰り返し出版され、今でいう一大ロングセラー作品となった。
暁斎の作品には風景画がやや少なく、もしや暁斎は近視だったのではないかと疑っていたが、あの鹿ろく鳴めい館かんを設計した英国人建築家のジョサイア・コンドルが描いた暁斎の肖像(図2)を見たところ、暁斎は老眼鏡をかけていたため、正視眼であったことがわかった。
コンドルは明治14年(1881年)頃から暁斎に日本画を学び、「暁きょうえい英」という画号まで授けられた愛弟子で、この絵は、明治18年(1885年)に二人が日光へ出かけたときに描かれたスケッチである。
暁斎はコンドル以外にも、当時来日した外国人たちとも親しく交流していたことから、幕末からすでにその作品はヨーロッパに渡り、北斎に次いで有名な画家であった。特にそのデッサン力と早描き、暁斎ならではのユーモアにより欧米人から絶大な人気を博し、今でも海外では高い評価を受けている。
暁斎は日本において戦後の一時期からなぜか評価が急落してしまったため、海外との知名度の違いを嘆かずにはいられない。美人画、動物画、戯画など、器用にどの分野や画題も描けた多芸さが、一つに秀でることを尊ぶ日本にあって、かえって評価を定めにくくしてしまったのかもしれない。
- ※河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい)
- 1831年~1889年。満六歳から二年ほど歌川国芳に学び、九歳から駿河台狩野家で修業。十八歳で「洞郁陳之」の号を与えられ、異例の若さで修業を終えた狩野派絵師。
著者
河鍋 楠美(かわなべ くすみ)
蕨眼科院長、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館理事長・館長
河鍋暁斎のひ孫。東京大学医学部医学博士。1977年、河鍋暁斎記念美術館を開館。
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