健康長寿ネット

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第25回 徘徊

公開日:2019年10月 4日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時57分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


30年前、ニューヨークの郊外に住んでいた時に車で自由の女神像を見に行った。
帰り道で、ブルックリンの黒人街に迷い込んでしまった。
マンハッタン島の周囲を走るFDRドライブを通ってクイーンズボロー橋を渡って帰るつもりがブルックリントンネルを抜けてしまったらしかった。
その当時は、ニューヨークの治安は悪くて車から降りてはいけないと研究室の同僚に教えられていた。
車を止めて道を聞くことは危険な行為であった。
東西南北もわからずに闇夜の黒人街を走るのは宮沢賢治の世界のようで恐怖であった。
どうやって我が家にたどり着いたか覚えていないが、思い出すと今でも身震いがする。

1980年代までは車に乗って見知らぬ場所へ出かけるときは地図が頼りであった。
助手席に妻が座って地図を見ながらナビ役を務めた。
私たちは通常は仲のいい夫婦であったが車の中では喧嘩が多かった。
妻の指図に従っていると高速道路の出口を行きすぎることが度々あったからだ。

21世紀になって日常生活に大変換をもたらした文明道具の一つにカーナビがある。
行ったことのない場所でもカーナビに従っていれば必ず到達できるようになった。
私たちは車で迷子になる心配をしなくなった。

先月のことだった。
その日は朝9時に緑区の我が家を出て名古屋市役所へ行き、12時から観光ホテルで昼食を食べて、14時から開催される大曽根の支払基金の会議へ出席するというスケジュールであった。
全行程が単独であった。
秘書のいないこの頃では私の朝から晩までのスケジュールを知っているのは私だけである。
カーナビにさえ従っておればスケジュールは問題なく実行できるはずであった。

しかし問題は起きた。
昼食を終えて観光ホテルの駐車場でカーナビに「しはらいききん」と入れると、「該当する所がない」という表示であった。
電話番号で入れても行き先が表示されなかった。

支払基金とは医療者(医院や病院)が保険者(国や会社)に要求する診療報酬額が適切かどうかを審査する特別民間法人である。
世間にはあまり知られていない地味で固い法人の名前はカーナビに登録されていなかった。

カーナビが案内してくれないことがわかると私は焦った。
とりあえず周辺と思われるあたりを目指した。
国道19号線から大曽根あたりまでは順調であった。
左折するはずであるとカンを働かせて、左に回り右側にあるはずである建物を目指したが目的の建物は現れなかった。

行き過ぎたと推測した所で左折して、さらに左折をしてから、ワケがわからなくなった。
車がめまいを発症して、よたよたしているような感じになった。
自分の居場所が不明になり不安になるのは認知症の人が陥る感覚だ。
余裕を持ってホテルを出たはずなのに時間は迫っていた。
ニューヨークで体験した恐怖が蘇った。

私が道に迷ってうろうろしていることを知る人は誰もいない。
事故を起こすと「また高齢者が事故!!」と報道されるに違いない。
何度も支払基金の周辺あたりらしき所を回った。
それは老人の徘徊に似ていた。

結局、支払基金に電話をして女性の事務職員に誘導してもらって到着することができた。

まさかカーナビに「知らない!」と言われるとは思わなかった。

図:老いをみるまなざし_第25回徘徊_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していないードクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など著書多数

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