健康長寿ネット

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第33回 死の予感

公開日:2020年6月 5日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時55分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


2020年4月14日
私は車を運転しながら音楽を聴くのが好きである。
車の速度と音楽のリズムがほどよく調和した車を運転して、街の景色を後方に追いやり、前方の青空に向かって前進すると、心地よい過去が蘇り、明るい未来に進んで行くような気分になる。
この世は捨てがたく生きているのがまんざら悪くはないと思うのである。
私がカーステレオに録音してあるのはスーパーの特売で買ったCDや高速道路のパーキングエリアの売店で買ったものである。
1960年代から70年代にかけて流行った青春ソングが多い。
その日はマヒナスターズが歌う「北上夜曲」と、さだまさしの「精霊流し」を車で聴いた。どちらも死と愛の歌である。
あの頃の青春ソングは悲しい。
愛と死は近くにあったと、しみじみ実感して車を降りていつものスーパーへ買い物に行った。
イチゴが並べてあった。
濡れているようなイチゴを見て、妻を思い出した。「妻が生きていたときに一緒に食べたなー」と感傷に浸りそうになって、気がついた。
そういえば妻はまだ生きている。
妻は小児科医である。数日前にコロナに感染している可能性がある患者を診たといって帰宅した。妻が感染していた可能性があったのだ。
私への感染を恐れた私たちは別室で暮らしマスク越しに会話をして、食事も別々に取る暮らしをしていた。
妻の診た患者は陰性であったと判明したのは次の日であった。

1953年:某日
私は信州の田舎の小学生であった。
稲穂がつぼみになり始めた頃で、田んぼに田ノ草を取る人がいた。
ひまわりの花が退屈を誘っていた昼さがりであった。
天竜川の土手に向かって走っていく人が見えた。田ノ草を取っていたおばさんも裸足で土手に向かって走った。どこからか現れた男たちも土手を走っていた。田舎に衝撃が走った。半鐘がなった。
私も土手に向かって走った。
現場に着くと母親が子供の足を泣きながら撫でていた。
天竜川で遊んでいた小学生が流されて溺死したのだった。

真夜中にノックもせずに玄関のドアを開けて「死んじゃったよ!!」と絶叫する女性がいた。隣家のお嫁さんが出産時に死んだのだ。それを知らせるために妹が泣き叫んで知らせにきたのだった。

秋祭りの屋台の縄張りのいざこざで若い男が中年の男に刺されて死ぬのを目の前で見た。

何百万人もの人の死を置き去りにして終わった戦争は、終わった後もしばらくは死の余韻を社会に残していた。
老人は家で寝付き家族に見守られて死んでいった。
死は隣にあって昨日までいた人が突然いなくなった。
死はいつでも不意に訪れた。
そして死は日常の中にあった。
多くの人は老人になる前に死んだ。

2020年4月29日
私の勤めているクリニックへ発熱した患者が受診してきた。22歳の男性であった。
「今朝から発熱している。一緒に働いている同僚が発熱で休んでいる」ということであった。
発熱の患者が来るとクリニックに緊張感が走る。
新型コロナへの感染防御のために別室へ誘導して待たせておいた。
私は全身を防具で固めてマスクをしてゴーグルを掛けて手袋をはめて、待たせてある診察室へ出かけた。
防具を身につける手伝いをしてくれた看護師が私の腰の周りに紐を巻きつけながら「先生の感染が一番心配なのよね!」と言った。

図:老いをみるまなざし_第33回死の予感_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など

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