メディアの立場から
公開日:2020年2月14日 09時00分
更新日:2024年8月14日 10時59分
こちらの記事は下記より転載しました。
南 砂(みなみ まさご)
読売新聞東京本社常務取締役調査研究本部長
はじめに
本稿は2019年6月7日、東北大学で開催された「第31回日本老年学会総会」の特別招聘シンポジウム「人生100年時代における高齢者の今後─高齢者の定義再検討をどう生かすか」で話させていただいた内容をもとにまとめ直した論考である。与えられたテーマは「メディアの立場からみた高齢者の定義再検討」である。いわゆるネットメディアが不特定多数に向けおびただしい量の情報発信を行っている今日、メディアとは何かという問題を避けては通れないが、本稿では私ども従来型の新聞・活字メディアが、この提言をどのように報道したかを振り返り、今後予想される社会的な広がりについても述べる。そのうえで、日本老年学会・日本老年医学会という学者研究者集団(アカデミズム)が、この提言を社会に向けて公表したことの意義を独自の視点で評価するともに、筆者が長年追ってきた「老年医学と高齢者医療」に関する考察も加えたい。
「提言」をメディアはどう報道したか
2017年1月、日本老年学会・日本老年医学会が「高齢者の定義に関する提言」を公表すると、全国、地方各紙は一斉にこれを報道した。「従来65歳以上とされている高齢者の定義を75歳以上に見直し、65~74歳には『准高齢者』という新たな区分を設け、意欲ある人々が一層就労やボランティアなどに参加できる、活力ある健康長寿社会を創っていくべき」という提言を各紙は紙幅を割いて紹介し、好意的に解説した。
他方、ほぼすべての報道にみられたのは、この提言を直接に年金支給年齢引き上げなど、社会保障制度の変更に結びつけるのではないか、という警戒や批判、若年世代と高齢世代が労働市場で競合し若者の仕事を奪うのではないか、という危惧や懸念を示す、否定的な見方もあるという指摘である。その点は、提言自体が、「そのような懸念を社会に起こすことのないよう、今後はこの提言をどう社会的に活かすのか、慎重に社会全体で協議してほしい」と明言しているので大きな批判にはつながらなかった。
そもそも何ごとも批判的精神をもって報道するメディアの習性を考えれば、上記のような報道の仕方は当然であり、むしろ、メディアが一斉に取りあげたこと自体、この提言にはニュース価値があったといえる。社会に議論を巻き起こしたことは提言に大きな意義があったことに他ならない。報道と同時に、あるいはその後に、各紙はこの提言をどうみるのかをめぐってさまざまの特集記事を企画。学会が発信した高齢者の定義見直し提言について、立場の異なる有識者の意見を採り上げるなど、多様な記事展開がみられた。中長期的にみても、提言をもとにさまざまな市民講座や講演会、公開シンポジウムなどが企画され、各方面で議論が進んでいることは特筆すべきである。
今後予想される波及効果
この提言は各方面で反響を呼んだ。提言が公表された翌2018年には、自民党政務調査会の「人生100年時代戦略本部」が提言とほぼ歩調の一致した報告をまとめて政府に提言した。また神奈川県大和市が「70歳代を高齢者と言わない都市やまと」を宣言、長野県長野市、同松本市も、「高齢者の定義を75歳以上とする共同宣言」を掲げるなど、提言を踏襲した動きが地方自治体など各方面に広がっている。
学会が配慮を示した「社会保障制度や雇用制度への影響」も今後は当然進むと考えられる。むしろ、客観的な事実に基づいて専門家集団の見解が示された以上、これを下敷きにした議論が各方面で始められるべきである。まさに現在進行形ともいえる社会保障改革と働き方改革にもこのたびの提言が何らかの形で反映されるべきであろう。その際、当事者である高齢者がどう考えるのか、個別に異なる価値観や多様性をどのように勘案するのか、が大きな課題である。定義変更の対象とする集団は絶対的にも相対的にも大規模なので制度の急激な変化は望ましくない。「軟着陸」を図る方策を考えることが望ましいが、時間の猶予はあまりないので知恵を絞らねばならない。人口構造や雇用・労働環境、生活環境は地域差が大きいので、全国一律ではなく地域の実情に応じた議論を進めるべきと考える。
学者研究者集団(アカデミズム)の情報発信
ここから、老年医学という医学の専門家集団が提言を公表したことについて述べるが、これは、医学を志し、医師として医学・医療現場に身を置いたのちに新聞記者に転じた筆者自身の経歴と無関係でない。転職後30年余、筆者は必ずしも医学・医療のみをテーマにしてきたわけではないが、メディアの立場(ジャーナリズム)から向ける視線の先に常にアカデミズム(学者研究者集団、学協会と呼ばれる専門家集団)の存在があったことは事実である。
そもそもアカデミズム(学者研究者の専門家集団)の役割とは何なのか。このことを繰り返し考えさせられたこととして2011年、東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故が起こった後の社会状況がある。事故の影響で地域社会は崩壊し、住民の生活はすべて失われた。従来の原発政策が厳しく問われ、原発推進か反対かで世論は大きく分断した。この時、驚いたことは原発の専門家の意見が大きく分かれていたことだ。
とはいえ、たとえ個々の専門家の意見に乖離(かいり)があっても、専門家集団として安全基準や原子力政策についての一定の見解を示すことができていたなら、今日までの混乱は起こらなかったのではないか。専門家集団が内部の見解の調整や集約を図れなかったことが、社会や政治を停滞させる一因となったことは否めない。まもなく10年となる今日、日本のエネルギー政策はなお定まらず、世界の環境問題に逆行した火力発電の相対的増加が容認されている。
翻(ひるがえ)れば、国家的危機でなくとも、専門家の見解が乖離する事態は私たちの周辺で日常的にみられる。たとえば健康・医療の情報は個々人の生命・生活に直結するだけに、テレビや書物に登場する専門家の意見に一般市民が大きな影響を受け、社会的混乱に至る事態さえある。「情報化」の潮流に伴い、こうした事態は急速に増えている。かつてはメディアを通じて社会に伝わった「専門家や権威ある立場の人」の発信する情報が、今日ではネットメディアを通じて、不特定多数の国民に直ちに浸透する。「専門家集団」が正式に発信する情報の意義はそれだけに、今後さらに大きくなると筆者は確信している。
アカデミズムの社会的責任
本来、専門家同士の学問的見解に違いがあるのは当然のことだが、それは学協会、アカデミアの中で議論し尽くすべきものであろう。意見を違える専門家がアカデミアの外で論争を展開し、社会をも巻き込むという"場外乱闘"が近年よくみられる。国民にはどの専門家が正しいのか、判断するすべがない。議論は時に感情的な応酬になり、社会を混乱させる。学問上の論争をアカデミア外で、社会を巻き込んで展開することは、職業倫理上からも厳しく問われるべきであろう。
20世紀末、社会では、専門的なことは決定を専門家に任せるという父権主義(パターナリズム)が厳しく批判された。その結果、政策決定課程は必ず第三者を入れた議論による合議制が求められた。医療では、治療方針は医師に任せるのでなく患者や家族がインフォームド・コンセントを前提に自ら決める、できれば医療チームの合議も踏まえて決める、といったことが奨励され、その潮流は瞬く間に医療現場に浸透した。個々の専門家の責任がここで薄まるわけではない。専門家集団の提示する情報(標準治療や治療ガイドラインなど)を踏まえて個々の専門家の発する見解が判断の鍵になることは明らかで、それをせずに判断を投げる専門家は職務放棄として社会的責任を問われる。
改めて強調したいのは、専門家は集団(アカデミズム)として、社会や国家に対して客観的検証結果を示し、それに基づいた見解や意見を提示すべき、ということだ。たとえ社会や市民に不都合なことや耳障りなことであっても、それが専門家の社会的責任である。「高齢者の定義をめぐる提言」は専門家集団である日本老年学会・日本老年医学会が3年余をかけて検討し、客観的事実に基づいて導き出したものであり、専門家集団のありようとして筆者はこれを高く評価したい。
老年医学と高齢者医療を追って
筆者が「老年医学と高齢者医療」に特段の関心を持つようになったのは1990年代初頭、都心のある大学病院で「今月をもって老年病科の診療を廃止する」という通告が掲げられたことがきっかけである。日本社会が加速的に高齢化する中、違和感のある出来事だった。「老年病科と呼ぶべき特異的診療をしていないから」と病院側は説明した。
医学・医療の領域を年齢で区分するなら、「小児科学と小児科医療」の存在を否定する人はまずいない。子どもは成人の小型でなく、成長発達の途上という「子どもの特異性」があるからだ。高齢者、あるいは加齢の特異性に立脚した医学の領域として老年医学、老年病学は古くからある。ところが医療現場でどういう診療科になるのかが判然とせず、「小児科にあたる老年科の医療」がないというのだ。
一方、医療政策からみれば、高齢者(に相応(ふさわ)しい)医療とは、加齢に伴い虚弱となった高齢者には在宅医療の充実が望ましいとか、治療の選択としていわゆる高度先進的医療より、生活の質を落とさない対症療法、保存的医療、生活重視の医療が望ましいといった価値観がある。必ずしも暦年齢でなく各高齢者の心身の状態や日常生活に照らして個別性の高い医療が提供されるべきことは多くの臨床家が経験的に知っている。老年医学の知見が高齢者医療につながらないのはなぜか。「医学と医療」の、不可分でありながら同一ではない関係性がここにある。
医学と医療 あるべき関係は
老年医学という医学の一専門領域が、長いこと医学専門家集団(アカデミズム)の中でさえ正当に評価されず、その存在意義を発揮できなかった事情のひとつの解は歴史的背景にある。日本で初めて医療政策上、高齢者医療が問題になったのは1977年の旧厚生省老人保健審議会。高齢者の医療費が若年者のおよそ4倍という数字が示されたことがきっかけだった。以来、医療政策の大命題は「医療費の抑制」となり、高齢者医療が悪者とされ、いかにその費用を抑えるかが焦点になった。
2000年に高齢者医療の延長というべき介護保険制度が始まったのもその路線上であるが、残念なことに新制度策定にあたっては医療費のみが問題とされ、あるべき高齢者医療の姿やその根拠となる老年医学の知見が議論されることはほとんどなかった。介護保険制度発足を間近にした当時、「介護保険制度をつくるのに意見を求められない老年医学会とは何なのか」と、憤慨を露わにした、ある老年医学・医療専門家の呟(つぶや)きを筆者は忘れることができない。
背景には、医学は文部科学省の科学技術学術政策、教育政策上にあり、医療は厚生労働省の社会保障政策上に位置する、という医学・医療をめぐる官庁の縦割り構造の弊害も透けて見える。本来、「医学の知見を社会的に活かすのが医療」であるが、医学は新しい知見や研究論文、医療は目前の患者の治癒・回復、とゴールは異なり、高齢者のあるべき医療は医学論文にはなじまないという不幸な状況があった。
全国の大学医学部・医科大学における老年医学の講座整備があまりに貧弱なことも背景として大きい。この状況を懸念する声はかねて存在はしたが、多くの医学部関係者には、大学のめざす高度先進的医療と老年医学は重ならない。2011年日本学術会議は、提言「よりよい高齢社会の実現を目指して─老年学・老年医学の立場から─」1)の中で高等教育機関における老年学・老年医学の整備充実を図るべきと明言している。にもかかわらず、文科省が2018年5月に実施した調査では、全国81大学の医学部医学科で老年、長寿、老化、加齢、高齢などの語を含む講座を有する大学は16に止まり全体の2割に満たない(うち一部は神経内科、総合心療内科と一緒になった科名)。これは日本老年医学会が出している「3割未満」という数字よりさらに少ない2)。講座がなくとも専門家が指導していればまだよいが、厚労省によれば、専門医機構から提出された資料上、老年病専門医による診療科・部門のある大学病院本院は24.4%、臨床研修病院は17.5%で、諸外国の医学系大学との比較で明らかに低い。国内の全医科大学に老年科を置くフランスでは国が1980年代から国策として老年病科教育、老年病の専門科確立に注力し、法律に基づいて、病院での高齢者サポートチームの充実と人材育成を図っているという2)。世界で最も高齢化の進む国がこの現状でよいのか、関係者の再検討を促したい。
むすびにかえて
日本老年医学会は近年、フレイル、サルコペニア、ポリファーマシーなど高齢者に特異な医学的知見を構築しつつある。「老年病科に特化した医療」の存在意義をさらに発揮し、探索を進めて「真の高齢者の定義」に迫ってほしい。これはメディアの立場から老年医学専門家集団に向けた筆者の「提言」でもある。
文献
- 日本学術会議 臨床医学委員会 老化分科会.提言「よりよい高齢社会の実現を目指して―老年学・老年医学の立場から―」.2011.
- 樂木宏実.基調講演:わが国の老年医学の現状と問題点―教育・臨床・研究をめぐって.日本老年医学会雑誌 2018; 55: 209-214.
筆者
- 南 砂(みなみ まさご)
- 読売新聞東京本社常務取締役調査研究本部長
- 略歴
- 1979年:日本医科大学医学部卒業、ベルギー国立ゲント大学研究員、日本医科大学助手を歴任、1985年:読売新聞社入社。編集局解説部(電波報道部兼務)で医療、教育、社会をテーマとして報道、解説に従事。1989年:欧州共同体(当時)の招聘によりECVP(現EUVP)制度で渡欧、研修、2007年:読売新聞東京本社編集委員、2011年:編集局医療情報部長、2014年:取締役調査研究本部長、2017年より現職
転載元
機関誌「Aging&Health」アンケート
機関誌「Aging&Health」のよりよい誌面作りのため、ご意見・ご感想・ご要望をお聞かせください。
お手数ではございますが、是非ともご協力いただきますようお願いいたします。