第4回 老いをみつめる脳科学
公開日:2023年11月28日 09時00分
更新日:2024年8月13日 11時27分
森 望
福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授
『老人と少年の肖像』
パリのルーブル美術館のドゥノンのウィングだったかと思う。ミケランジェロの師匠でもあったドメニコ・ギルランダイオの1枚の絵があった。幼子が老人を見つめている。その老人がまた、若い命を見据えている。この少年も60年もたてば、今見つめているような老人になる。世代を綴った命の営みが人間の社会をつくる。パリであれフィレンツェであれ、そしてまた江戸でも東京でも。どこの場所でも、どのような時代でも、人間に生と死があり、その間に成長があり、またたおやかな老いがある。『LIFE SPAN』(東洋経済新報社)の本で叫ばれた「老いなき世界」、そのようなものはないのだ。
南カリフォルニアからの老化脳研究
老化脳の研究を始めたのは、ロサンゼルスのダウンタウンの南、以前オリンピックの主会場となったエクスポジションパーク横の南カリフォルニア大学だった。そこは米国で最初に老年学分野の研究の重要性を指摘し、大学院を整備し、全米で最初に「老年学」の学位を出した。この大学の広報誌に面白い絵が載ったことがあった。特集のテーマは「老化脳」。老人があごに手をあてて考え込んでいる。老いる脳の中でいったい何がおこっているのか?老化脳で老化脳を考える。アンドラス老年学研究所の3階のフロアの小さな研究室から始めた科学の謎解きと、そこへの思いを『老いをみつめる脳科学』(メディカル・サイエンス・インターナショナル, MEDSi)として取りまとめた。ロサンゼルスから京阪奈、大府、長崎、そして福岡と、ある意味では流浪の人生だった。そんな中で、いつもこの絵のように自身の脳で脳の中身の老いを考える。考えてきたのはその脳なのだが、それもまた老いてしまった。
「老・脳・寿」:老いをみつめる脳科学
最終講義というものがある。野球選手であれば引退試合。5年ほど前にそれを経験した。長崎大学医学部の第一解剖の教室の研究理念、それをそのままタイトルとした。「老・脳・寿」、それがすべてだった。標的はもちろん「老化脳」である。老化脳研究で大事なことの1つは、神経細胞(ニューロン)の機能性の低下にある。専門用語で「可塑性の低下」という。たとえば、アルツハイマー病の脳で認知能が下がるが、それは脳の海馬でのニューロンの刺激応答性の低下に起因する。その仕組みを知ることが大事だった。私たちは「シック」とか「レスト」とか、それはあとになってわかったことでもあったのだが、不思議なことに寿命を制御する遺伝子でもあったものの神経特性を調べることで、老いのからくりの機微にせまった。研究対象はもっぱらマウス。小さなネズミだ。しかし、医学部にいたので、人間の脳のことも当然気になる。医学生には脳解剖を指導していた。だから解剖実習室では毎年30体以上の脳の中を覗いてきた。医学のためにと篤志献体された方の貴重な脳である。その多くはご高齢の方の脳だった。毎年秋に行われる慰霊祭には心謹んで祈らせていただいた。
百年の森の中へ
老化関連学会の合同大会である日本老年学会、それが大阪で開催された2013年、思えばちょうど10年前だが、その時の基礎老化部門の大会長を務めたことがあった。学会の最終日に市民講演会を企画した。その目玉にとお願いしたのは、福岡在住の当時106歳だった曻地(しょうち)三郎先生。その頃の本誌の表紙に、お元気な姿がある。ご自身のお子様が脳性麻痺で、社会保障のない時代に障害児のための学校を創設された。「しいのみ学園」である。語学にも堪能で、百歳を過ぎても世界中を講演行脚しておられた。そんな曻地先生の脳を見てみたい。それで沖縄にお連れして、琉球大学の脳外科教授の石内勝吾先生にお願いして脳画像をとった。スーパー百寿者の脳の秘密を解こうとしたのである。無論、画像だけで秘密が解けるわけではないのだが、曻地脳のすごさの一端はその画像データから見えてきた。遺伝子のことも含めて、いつかこの人間の脳という百年続く深い森の中へ分子のレベルで分け入って、人生百年のすこやかのあり方が見えてくるとありがたいと思っている。
『老いと寿のはざまで』
ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
鴨長明の『方丈記』の冒頭だが、これは生命における生々流転、輪廻、恒常性の原理を端的に物語っている。鴨長明は神職を退いて、野に下った鎌倉時代のエッセイストだ。こちらは研究職としての我は終わり、教育職としての吾ももうじき終わる。私の上の肩書はいずれ消えるだろう。その先は、"自称"「サイエンスライター・エッセイスト」として生きていけたらと思う。大阪の生駒山麓の古い神社の広報誌にこの10年余り書き綴ってきたエッセイを取りまとめて『老いと寿のはざまで』(日本橋出版)とした。そこには、益軒の『養生訓』ほどではないにしても、老いを健やかに生きるヒントが散りばめられている。老年学の最先端もそこに見え隠れする。
老いの研究は、老いゆく己を知る旅でもあった。そう思えるのはやはり歳をとったからかもしれない。老年になって初めて気づくこともたくさんある。その意味では老化脳に感謝している。
老いぬとてなどか我が身を責めきけむ 老いずは今日にあわましものか
(藤原敏行 古今和歌集903)
そう、老いを責めず、老いてこそ今がある。そのことに感謝しつつ生き抜いてみよう。
著者
- 森 望(もり のぞむ)
- 1953年生まれ。福岡国際医療福祉大学医療学部教授、長崎大学名誉教授。1976年東京大学薬学部卒業、薬学博士。1979年東邦大学薬学部助手、1984年米国COH研究所、1986年カリフォルニア工科大学研究員、1990年米国南カリフォルニア大学(USC)・アンドラス老年学研究所助教授、1996年国立長寿医療研究センター分子遺伝学研究部長、2004年長崎大学医学部第一解剖教授、2019年より現職。著書に『寿命遺伝子』(講談社ブルーバックス)、『老いと健康の文化史(翻訳)』(原書房)、『老いと寿のはざまで』(日本橋出版)、『老いをみつめる脳科学』(MEDSi)など。
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