健康長寿ネット

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第2回 あるケアマネジャーとの出会いと別れ

公開日:2024年7月19日 09時00分
更新日:2024年7月19日 09時00分

小堀 鷗一郎
堀ノ内病院 地域医療センター在宅診療科医師


 2009年の初夏の頃であろうか、ある日の夕方、時間外診療の申し込みがあり、救急外来へ呼び出された。外来の長椅子に異臭を発する汚れた衣服の高齢の男性が横たわっており、傍らに赤いベストに同色のバックパックを背負った女性が座っていた。

 堀ノ内病院は私の大学時代の親しい同級生が埼玉県南部新座市に開設した急性期病院であるが、1983年の開設以来の彼の方針は「すべての患者」を無差別に受け入れることであった。東京メトロ千代田線の根津駅構内で昏倒した若い男性が日本医科大学の精神科の診察券を所有していたためか、都内の10数か所の病院から(満床を理由に)受け入れを断られ、堀ノ内病院に担送されてきたのは、時期的にはこの頃と記憶する。私はその時、本郷消防署に電話して確認したところ、その夜の救急隊員がかつて所沢消防署に勤務しており、堀ノ内病院なら診療を断られる心配はないとの確信があった、ということであった。

 そのような病院であるから、他院では診療を拒否されたホームレスに近い患者が多数緊急搬入されていた。そのため救急室の入り口の近くに囲いのない簡易シャワーが設けられており、とりあえず患者の洗浄が可能となっていた。この患者もおそらく同様のルートを経て診療・検査に至ったのであろう。

 何週間か経っての後、たまたま通りかかった急患室の前で同じ光景を目にした。

 すなわちホームレスを思わせる男性と赤いベストとバックパックの中年女性である。それからどのくらいの間隔があいていたのか、今となっては定かではないが、3回目に同じ光景を目にした時、私はためらいもなく彼女の側へ行き、話しかけた。これが隣接する市に介護事業所を経営するケアマネジャーTYさんとの出会いである。

 なぜあなたはこのような社会的弱者(その時どのような表現をしたか記憶にない)のケアをしているのか、という質問に対して「私が最低の人間だからです」というぶっきらぼうな答えが返ってきた。よく理解できないまま「私の考えはあなたと違うようであるが、あなたのやっていることは正しいことだと思う。堀ノ内病院は正しいことには全面的に協力します」と告げた。

 以後TYさんがこの世を去った2012年5月までの3年足らずの間に、彼女からの依頼で私が在宅主治医となった患者は15名に上る。いずれも家族を含め社会から断絶した個性の強い人物で、主治医である私の身に危険が及ぶことを危惧した市の担当者の忠告で主治医の役割を放棄した2名も含まれる。2名とも表面上、穏やかに見えるが、極めて攻撃的な性格で、刃物をベッドに忍ばせているような特殊な人物であった。

 訪問診療医師とケアマネジャーとして始まったTYさんとの関係は、時を経るにしたがってスタッフを交えた飲み会や花見会を開くほど親しくなったが、彼女が初対面の際、口にした「最低の人間」の意味するところは不明のまま月日が流れた。

 「最低の人間」であるがゆえに社会の底辺に暮らす病者の世話をする、TYワールドの内部に関しては、彼女は語ろうとしなかったし、私もあえて知ろうとはしなかった。彼女が問わず語りに語ったことは、彼女のキャリアーは鍼灸師に始まり、看護師を経てケアマネジャーに至ったこと、看護師時代が一番充実していた時期で、虎の門病院の食堂で当時の病院長とランチを共にした経験などをやや誇らしげに語ってくれた。

 彼女は数年前から呼吸器の難病に罹っており、病状が急速に悪化していた。亡くなる年の4月、例年通りの花見会が近所の公園で開かれた。TYさんは酸素ボンベ付き車いすに乗ったまま高齢の利用者の方々と楽しそうに談笑していたが、体調が悪いことは一見して明らかであった。

 4月下旬、私は事務所にTYさんを訪ね、彼女が年明けから楽しみにしていた飲み会を5月に開くことを伝えた。5月の連休明けの早朝、出勤中の車にTYさんから電話がかかってきた。病状が急変して市内の呼吸器専門病院に入院したこと、そのため飲み会には参加できないこと、そして堀ノ内病院のバックアップのお陰でこの3年間安心して介護の仕事ができたことを感謝している、といつもの口調で淡々と述べられ、これから点滴が始まるのでお話ができなくなるので、と電話を切られた。

 電話が切られた直後、何か言うべきであろうと思い、再ダイヤルしたが、呼び出し音が空しく響くだけで応答はなかった。結局それが最後の会話となったが、仮に彼女が電話口へ出たとしても、何を言うべきだったか、10年余り後の現在も判らぬままである。

 「最低の人間」であるTYさんと15名の患者の記憶が蘇るたびに、私はロシアの巨匠アンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』を思い出す。世界の終わりが来ると信じ、家族を7年間も幽閉したドミニコは、周囲からは狂信者とみなされ、妻も子も彼のもとを去る。

 TYさんが自らの病と闘いながら社会の底辺に生きる患者のケアを実践していた年月、彼女の眼にこの世界はどのように映っていたのだろうか。

著者

こぼりおういちろう氏の写真。
小堀 鷗一郎(こぼり おういちろう)
 1938年生まれ。東京大学医学部医学科卒業後、東京大学医学部第1外科教室助教授などを経て、国立国際医療センター(現国立国際医療研究センター)外科部長・副院長・病院長。外科医として約40年勤務。定年退職後、2005年より埼玉県新座市の堀ノ内病院で在宅医療に携わる。現在、訪問診療医。母は小堀杏奴、祖父は森鷗外。著書『死を生きた人びと―訪問診療医と355人の患者』(みすず書房)など。

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health 2024年 第33巻第2号(PDF:3.7MB)(新しいウィンドウが開きます)

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