第1回 3日間の自由
公開日:2024年5月 1日 09時00分
更新日:2024年8月13日 11時24分
こちらの記事は下記より転載しました。
小堀 鷗一郎
堀ノ内病院 地域医療センター在宅診療科医師
昨年(2023年)の10月、堀ノ内病院に入院中の患者から退院後の往診についての依頼があった。患者は79歳の男性、大企業の研究所に長く勤務したエンジニアで、定年後は登山や写真撮影を兼ねたバードウォッチングを趣味とした生活を送っていた。子供たちは独立して家を離れ、妻と2人だけの生活である。いわば、絵に描いたような平和な老後の生活を送っていたことになる。
2年前に進行した胃がんが発見され都内の病院で手術を受けた。さらに昨年その再発が見られ、抗がん薬治療が功を奏さないまま人工肛門が造設された。今回の入院はその人工肛門からの出血である。
診療情報提供書には、病勢が進んだ昨年夏から月2回の他医による訪問診療が行われたことが記されていたが、このほかに患者の希望としてあまり類を見ない要望が記されていた。1つは在宅主治医を小堀に変更する、もう1つは一切の看護・介護関係者はよこさないでくれという要望である。
私は直ちに彼の入院している病室を訪れ、初対面の患者と向き合った。患者はがんの末期患者特有の顔貌と臭気を漂わせていたが、初対面の私を満面の笑みを浮かべて迎えた。
「私は先生の手にかかって、枯木のように死にたいのです」
これが自己紹介の後、最初に彼の口を出た言葉だった。私は、私という人間が患者の意に適った人物であるか否か、時がたってみないと判らないこと、人が"枯れ木のように安らかに最期を迎えること"は稀であることを説明した。
具体的には、私の不在の真夜中(私は患者に渡す緊急連絡先に午前0時から6時までは電話に出ないことを明記してある)にどんな苦痛や困難が訪れるか予測がつかないこと、このような時に駆け付けてくれる有能な訪問看護師や介護士の存在の重要性を説明した。さらに、たとえ短期間であっても介護体制が整っていない場合に家族にかかる負担の大きさも付け加えた。
「解りました。先生の言われる通りにします。ただ3日間だけ自由にさせて下さい」
これが患者の回答であった。その日の夕方患者は退院した。
まさしく4日目、私はケアマネジャー、訪問看護師と共に第1回の訪問診療を行った。この間の3日間に私はケアマネジャーと訪問看護師に、この患者の特異性について理解を求めるべく十分な説明を行った。訪問看護師とはかつていわゆる困難事例を協力して看取った経験があり、理解は容易に得られた。この日に採血した血液データは、いつ最期を迎えても不思議がないと思われるほどすべての臓器の機能低下を示していた。
翌々日ケアマネジャーから連絡が入り、訪問の翌日、患者の妻が介護事業所を訪れ、夫の強い希望で、看護師および介護士の訪問を今後行わないでほしい、との申し入れがあったとのことであった。「検死になってもいいのでしょうか」という訪問看護師の言葉が脳裏をかすめた。
その日の帰り患者の家を訪れた(患者の家は私の通勤路から2、3分入った場所にある)。自宅退院わずか10日余りで見違えるほど元気になった患者に私はこう言った。
「貴方は大きな会社の研究所勤務であったと聞いている。私の理解では研究職といえども通常の会社員の毎日、嫌いな上司とか折り合いの悪い同僚がいたに違いない。そのような会社の上司同僚との間に妥協ということはしなかったのですか。私に言わせれば貴方のやっていることは"わがまま"の一言に尽きる」
彼は表情を変えることなく、穏やかに答えた。
「私の一生は妥協の一生でした。だから死ぬときだけは"わがまま"でいたいのです」
それから約2か月、日増しに患者は元気となった。食欲も入院時とは比べ増進し、時には自分で調理することもあった。庭に出たり、書斎で長時間PCをいじったりもした。私は隔週の訪問診療のほかに帰宅途中にしばしば顔を出し、時間の許す限り雑談に興じた。ある夜妻は不在で、患者が一人で留守番をしており、別れ際に自分で焼いたサンマを冷凍にしたものをくれた。年の瀬が迫った頃、妻は本人が嫌がる採血を希望した。がんが消えてしまったのではないか、との思いからであろうと考え、本人を説得し採血したが、結果は腫瘍マーカーの著明な上昇を示していた。妻には実際に見られた栄養状態の改善のみ伝えた。
大晦日の午後、妻から譫妄状態が見られるという報告が入った。夜になって問いかけに返事をしなくなり、年明けと共に息を引き取った。退院後63日目のことであった。
60年余にわたって看護の現場に立った聖母病院シスター寺本の著書に下記の一文がある。
「シスター寺本、どうかわたしの最期の言葉を看護婦さんや学生さんに話してください。それは、病人というものは現実主義者です。昨日よかったことが今日もよいとはかぎりません。昨日喜んでいただいた食べ物が、今日はまったく嫌いなものに変わるかもしれません。病人の望みは今の望みです。現在の望みです。そのことをよく理解して病人に接してください。病人はわがままかもしれません。しかし病人にはそれが真剣な叫びなのです」
(寺本松野『新装版 看護のなかの死』p.145-146 2001年 日本看護協会出版会)
著者
- 小堀 鷗一郎(こぼり おういちろう)
- 1938年生まれ。東京大学医学部医学科卒業後、東京大学医学部第1外科教室助教授などを経て、国立国際医療センター(現国立国際医療研究センター)外科部長・副院長・病院長。外科医として約40年勤務。定年退職後、2005年より埼玉県新座市の堀ノ内病院で在宅医療に携わる。現在、訪問診療医。母は小堀杏奴、祖父は森鷗外。著書『死を生きた人びと―訪問診療医と355人の患者』(みすず書房)など。
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