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第1回 粗食長寿説の系譜

公開日:2018年11月13日 11時46分
更新日:2023年12月28日 14時33分

柴田 博(しばた ひろし)

人間総合科学大学保健医療学部学部長


 筆者は、2013年の1月25日付けで『肉を食べる人は長生きする 健康寿命をのばす本当の生活習慣』(PHP研究所)という著書を上梓した。自分自身の半世紀近くの研究に基づいて、中高年の低栄養がいかに余命を短くし、寝たきりや認知症の原因となるかをできるだけわかりやすく述べたつもりでいる。ところで驚いたことに、拙書とまったく同じ日付けで『長生きしたけりゃ肉は食べるな』(若杉友子著・幻冬舎)という著書が発刊されたのである。装丁も白い地に赤と黒の文字と似ており、友人は筆者の本を買うつもりでいて、うっかり隣に並んでいた若杉さんの本を買ってしまった。

 しかし、その友人曰く、「タイトルが違うように、この2冊はまったく好対照である。柴田の本は、食べ物の種類をできるだけ多くすること。特に、日本の高齢者はもともと肉類や牛乳を摂っていない食文化だったので、これらが不足しないようアドバイスしている。一方、若杉の本は肉や卵、牛乳、乳製品、納豆も一切ダメ、米を中心の一汁一菜がよいとしている。どこかの雑誌かテレビ・ラジオでディベートをやってもらうのがよい」。

 確かに読み比べてみると、その主張が筆者のそれと北極と南極くらい正反対であることに驚きを禁じ得ないのである。公開のディベートは筆者も望むところである。実はディベートを望む筆者の本音には(あまり大声で言えないが)、ひそかな企みがある。誠に口惜しいことに本の売れ行きが、若杉さんの本の方がかなりリードしているのである。両方を読み比べてもらう機会が増えれば、拙書の売り上げも伸びるに違いないと期待している次第である。

 ともあれ、若杉さんの本の売れ行きが好調であるということは、上述の拙書が口を極めて批判している"粗食長寿説"がまだ根強く日本人の心に巣喰っているっていることを物語っている。筆者の幼少期にも、「朝から生臭いものを食べると血が汚れる」などと言われ、米と豆腐と野菜を中心に食べ、一生懸命働くと長生きすると教え込まれてきた。日本以外の国にも、肉食を禁ずるような思想が皆無ではない。しかし、それは主として宗教的な戒律などによるもので、国民全体にそれが定着してしまった例は、蒙古に支配される前の朝鮮半島の人々や日本人にみるのみである。

 本稿は若杉さんの本に書いてある内容について批判することを目的としていない。拙書でも指摘しているように、粗食長寿説の間違いは既に明らかだからである。

 本稿では、なぜ日本人に粗食長寿説が根付いたのかを歴史的に考察することにしたい。粗食長寿説のインパクトの起源は極めて古く、筆者自身の何冊かの啓発書によって容易に一掃されるようなものではないのかもしれない。

表:わが国の粗食長寿説へのインパクト
538年 仏教伝来
676年 天武天皇の第一回殺生禁止令
676年 殺生禁止令は12世紀頃まで
1611年 江戸幕府秀忠将軍時代の牛肉売買禁止令
1633年 鎖国令
1713年 貝原益軒の「養生訓」
第二次世界大戦後 コレステロールバイ菌説
2000年以後 メタボ検診、メタボ退治

出典:柴田 博:肉を食べる人は長生きする.PHP研究所.2013.

 表に示したように、粗食長寿説にインパクトを与えた殺生禁止令は天武天皇以来何人かの天皇によって出されている。これは仏教の影響であるとするのが定説となっている。仏教が伝来した当時、大和朝廷は全国統一途上にあった。聖徳太子は、全国統一の旗印として仏教の持つ普遍的な力を必要として仏教保護の主役を担ったものと思われる。

 仏教が伝来した頃のわが国では、紀元前300年くらいから始まった稲作が盛んになる一方、縄文時代から引き継いだ狩猟による肉の取得も盛んであった。しかし、権力が富を増大させるためにはストックの効く米の方が肉よりも有利であった。そのため肉食を卑しいものとし、米食を尊いものとする思想を人民に植え付ける必要があったものと思われる。仏教の伝来以前にもこのような思想の生産があったことは十分推定される。神道の祭儀などからも一部うかがえるのである。しかし、文字の存在しなかった時代のことは確かめようがない。

 周知のように、仏教の教義には、もともとは肉食禁止の思想はない。中国に渡り道教の影響でその思想が付与されたとする説もある。ともあれ、仏教伝来後しばらくの殺生禁止令はまだおおらかで、牛、馬、犬、鶏の肉食は禁じたが、鹿や猪などの肉食は許されていた。

 肉食忌避の思想が本当に定着したのは、江戸時代である。1611年(二代将軍秀忠の時代)、牛肉売買の禁止令が出され、1633年には鎖国令が出された。江戸時代を安定させたのは士農工商の身分制度と鎖国であった。農民には、「粗食をして一生懸命働くことが長生きの秘訣であり、国のためである」とする思想を信じ込ませる必要があった。そのイデオローグの代表が、1630年生まれの貝原軒であった。彼が著した『養生訓』には、栄養過剰の害は書いてあるが、低栄養の害は書かれていない。粗食長寿説の誤りに民衆が気付いたら、身分制度を維持する上で大変不都合なことになったわけである。

 明治維新により、形式上は肉食禁止が廃棄された。しかし、日本人の文字を用いる年月と同じくらい続いている粗食長寿説の歴史がそれほど容易に克服されるわけではない。日本人の深層心理には粗食長寿説が休火山のように不気味に潜んでおり、何かきっかけがあればいつでも噴火するようである。

 第二次世界大戦後のコレステロールバイ菌説も現代版の粗食長寿説をもたらした。最近は少しずつ克服されているが一頃は「血中のコレステロールは低いほどよく、コレステロールの少ない食品ほどヘルシーだ」などというコマーシャルが氾濫した。そして、2000年以降一般化してきた「メタボ退治」も国民の低栄養化を助長した。現在の日本人のエネルギー摂取は1,849キロカロリーで、終戦直後の1946年の1,903キロカロリーを下回っている。コレステロールバイ菌説のおかげで、卵も牛乳も摂取量が激減している。男性の平均寿命は世界8位にまで下がり、女性の平均寿命は2年連続低下していて首位の座を香港に空け渡した。

 それにしても日本人は、学歴は高いがオカルトに弱い。根拠のないものにほどトビつきやすいと思えるくらいである。かつて「白いものは体に悪い、白砂糖、精製した塩、白米、牛乳は全部ダメ」というキャッチフレーズが一世を風靡(ふうび)した。その次に「赤いものはダメ、赤味の肉、マグロ、カツオ、よいものはトリのササミと白い魚」というコピーもかなり流行した。

 昔の人は、「学ある人は理屈を言って他人(ヒト)をダマすから用心せにや」と言った。現代人も内心そう思っている節がある。

(2013年4月発行エイジングアンドヘルスNo.65より転載)

筆者

筆者_柴田博氏
柴田 博(しばた ひろし)
人間総合科学大学保健医療学部学部長
1937年生まれ。北海道大学医学部を卒業した後、東京大学医学部第四内科医員、東京都老人研究所副所長(現在名誉所長)、桜美林大学大学院老年研究科教授(現在名誉教授)を歴任。2011年より人間総合科学大学保健医療学部学部長、大学院教授。高齢者の寿命と高い生活水準・社会貢献を促すために、東京都、文部科学省、厚生労働省などの研究プロジェクトのリーダーを務めてきた。※プロフィールは誌面掲載当時のものです

著書

『肉を食べる人は長生きする』(PHP研究所)、『中高年健康常識を疑う』(講談社)など多数

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health No.65

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