主観的認知機能と認知機能の乖離がもたらす社会問題
公開日:2023年10月14日 09時00分
更新日:2024年8月13日 15時55分
駒村 康平(こまむら こうへい)
慶應義塾大学経済研究所ファイナンシャル・ジェロントロジー研究センター長
慶應義塾大学経済学部教授
「人生90年時代」が現実のものに
2023年4月に国立社会保障・人口問題研究所から「
」が発表された1)。新型コロナの影響で、出生率は低下している一方、寿命に与える影響は限定的で今後も寿命の伸長が予想される。寿命について見ると、表のように平均寿命、寿命中位年齢、最頻死亡年齢の3つの数字が推計されている。2020 | 2020 | 2040 | 2040 | 2070 | 2070 | |
---|---|---|---|---|---|---|
男性 | 女性 | 男性 | 女性 | 男性 | 女性 | |
平均寿命 | 81.6 | 87.7 | 83.6 | 89.5 | 85.9 | 91.9 |
寿命中位年齢 | 84.5 | 90.5 | 86.4 | 92.2 | 88.6 | 94.4 |
最頻死亡年齢 | 89.0 | 93.0 | 90.0 | 94.0 | 92.0 | 96.0 |
中高年が自分のライフプランを考える場合、0歳からの平均寿命よりは、寿命中位年齢や最頻死亡年齢に注目する必要がある。2020年の最頻死亡年齢は、男性約89歳、女性約93歳であるが、2070年はそれぞれ92歳、96歳となる可能性がある。21世紀生まれの世代は、人生100年といわれるようになったが、すでに多くの人にとっても、「人生90年時代」は現実のものとなり、75歳以降、15年程度の人生を経験することが普通になりつつある。
主観的認知機能と認知機能
このような長い人生を健やかに過ごすためには、心身の健康とともに、脳の機能の維持も重要である。特に前頭葉に基盤を置く認知機能は生活上の様々な行動、意思決定の基盤になる。
認知機能の低下については、軽度認知障害(MCI)、認知症と深刻になるが、その前段階として、主観的認知障害の存在も指摘されている。40代半ばにさしかかれば多くの人が、人の名前やとっさの記憶が出てこないこともあるが、大抵は正常加齢の範囲である。しかし、そうしたことが頻繁に起きると、自らの認知機能に不安を持つようになる。主観的認知機能の低下は、本人が自らの認知機能の低下を把握している状態ということになる。
は、主観的認知機能の低下と認知機能の低下の様子を図1のように説明しているが、重要な点は主観的認知機能と認知機能の動きに乖離がある点である。
ここでわかることは、主観的認知機能の低下は、認知機能の低下以前より始まり、その後、認知機能の低下が一定水準まで進むと、今度は逆に主観的認知機能は上昇をはじめる。つまり認知機能の低下が進むと自分の認知機能の低下を自分自身が把握できなくなっていくことになる。これを裏付けるような調査がある。
図2は、自動車の運転に関して、年齢別に「運転に自信がある(かなり自信があるとある程度自信がある)」と回答する人の割合を見たものだが、年齢とともに「運転に自信がある」と答える人が増える傾向があることがわかる。また「直近3年以内の運転で、事故に至らなかったが、ご自身の不注意・過失によって『ヒヤリ・ハット』があるか」という質問に対しては、「経験したことがない」という回答が年齢ともに増えている3)。では、高齢者の運転は、運転がうまく、慎重であり、安全なのかというと、内閣府の
によると、免許人口10万人あたりの事故率は、75歳未満の3.1件に対して、75歳以上6.9件、80歳以上9.8件と、高齢者のほうが2倍から3倍高いことが確認されている。客観的に事故が多いにもかかわらず、「運転に自信がある」や「ヒヤリ・ハットを経験しない」という回答が高齢者ほど多いのは、高齢ドライバーが主観的には操作ミスによる事故のリスクを認識していないことを意味している可能性があり、自動車の運転においても主観的認知機能と認知機能の間の乖離が存在することの傍証にもなる。認知機能の低下による経済活動への影響
このことは自動車の運転だけではなく、経済活動でも極めて重要なことを意味する。認知機能の低下はグラデーション状に進むため、徐々にできないことが増えていく。日常の買い物、金融口座、財産の管理、そのほかの様々な契約といった経済活動でもできないことが増えていく。まず日常のおつりの計算、請求書・領収書の処理など、そしてATMの操作などが苦手になる。それでも日常の経済活動はなんとかできるかもしれないが、その中で消費者被害にあうリスクも上昇する。たとえば、不動産、リフォーム、通販などの契約内容が適切なのかという判断はむずかしくなり、投資商品、保険などの金融商品の理解はできなくなる可能性もある。その一方で、自動車の運転と同様に、認知機能が低下しているにもかかわらず、ATMの操作や契約をするという経済行動をする能力がある状態で主観的認知機能が上昇してしまうと、自分が不適切・不利な契約を結ばされても、本人が被害を受けているという認識を持たなければ、被害は明らかにならない。
この点について、消費者庁
では、認知症の方の相談状況について、「高齢者の消費生活相談に占める認知症等の高齢者の割合を年齢区分別にみると、65歳から74歳までは0.8%でしたが、75歳から84歳までは4.3%、85歳以上では11.2%でした。年齢層が高くなるほど、判断能力の低下が背景にある消費者トラブルの割合が高くなっています。」と認知症の方の消費者トラブルが増えてきていることを指摘している。その一方、「認知症等の高齢者の消費生活相談件数をみると、近年は毎年8,000件台で推移しています。高齢者全体と異なる傾向としては、本人からの相談の割合が低いことがあります。高齢者全体では、本人から相談が寄せられる割合は約8割ですが、認知症等の高齢者では約2割にとどまっています。」としている。つまり、本人が被害を認識していないことが多い、あるいは相談できない状況になっていることがわかる※1。白書では続けて、「認知症等の高齢者本人は消費者被害に遭っているという認識が低いため、問題が顕在化しにくい傾向があります。」としている。つまり認知症の方の消費者被害の相談は氷山の一角の可能性もある。※1 被害額について、白書では、「認知症等の高齢者の消費生活相談1件当たりの平均契約購入金額と平均既支払額は、高齢者全体よりも高額になっており、認知症等の高齢者の消費者被害はより深刻である」としている。
ただ白書では気になる記述もある。「高齢者の消費生活相談件数の推移をみると、2018年(約35.8万件)をピークに減少していましたが、2022年は約25.8万件と、前年(約25.5万件)と同程度でした。」と高齢者人口が増えている割には相談件数が増えていないとしている。ただ、このことから、消費者被害の防止の効果が出ていると判断することはできない。主観的認知機能と認知機能の乖離により、トラブル事態を認知しておらず、そのため相談件数が増えていないのかという可能性もある。
本人が認知できない問題への対応
実際に被害があっても、本人がそれを認識しなければトラブルが報告されず、「なかった」ことになり対策が行われない。本人が「認識できない問題」を解決するというのは、なかなか対応がむずかしい問題である。
一方、工夫をすれば対策できる場合もある。金融機関の店頭では、通帳や印鑑が不明、来店目的がわからない、ATMの操作ができない、契約内容が理解できないなどといった、認知機能の低下した高齢顧客の様々な問題が発生している。そのような顧客に接したときに、一人暮らしの高齢者などで特に心配な場合は、職員が福祉機関への情報共有を本人に勧めることもある。しかし、本人の主観的認知機能が上昇してしまっている場合、自分が危険な状態にあることを認識できなくなっているため、福祉機関への連絡を納得・同意しない場合もある。金融機関も個人情報保護ルールのもと、本人同意がないと福祉機関などへの情報は行うことができず、職員も不安を持ちながら、その場の対応で済ませることも多くある※2。実は、このような場合、消費者安全法や社会福祉法の中には自治体の見守り等・支援事業の中に金融機関を組み入れることで、本人の同意なくとも行政や福祉と個人情報を共有する仕組みがあるが、実際にはほとんど活用されていない。そもそも、本人同意を優先する個人情報保護の考えの中に、すべての認知症の患者は自らが認知症になっていることを認識し、自分の困難を把握できている(主観的認知機能と認知機能の乖離がない)という誤った前提があるのかもしれない。
※2 この問題は、2020年8月の金融庁市場ワーキング・グループ報告書「顧客本位の業務運営の進展に向けて」でも指摘されている。
一層進む長寿社会の中で、主観的認知機能と認知機能の乖離がもたらす問題が、社会で共有されていく必要がある。
文献
- (2023年9月20日閲覧)
- (2023年9月20日閲覧)
- (2023年9月20日閲覧)
- (2023年9月20日閲覧)
- (2023年9月20日閲覧)
筆者
- 駒村 康平(こまむら こうへい)
- 慶應義塾大学経済研究所ファイナンシャル・ジェロントロジー研究センター長
慶應義塾大学経済学部教授 - 略歴
- 1995年:慶應義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学、国立社会保障・人口問題研究所研究員などを経て、2007年より現職。2009-2012年:厚生労働省顧問、2010年より社会保障審議会委員、2012-2013年:社会保障制度改革国民会議委員、2023年より生活経済学会副会長
- 専門分野
- 社会政策
- 過去の掲載記事
転載元
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